書評
2026年5月号掲載
人々を縛る見えないゴースト
桜木紫乃『異常に非ず』
対象書籍名:『異常に非ず』
対象著者:桜木紫乃
対象書籍ISBN:978-4-10-327727-9
『異常に非ず』は、昭和54年に大阪で起きた銀行立てこもり事件がモデルになっている。当時この事件を担当した記者は、警察が犯人説得のために緊急ヘリで母親を迎えに行ったところ、ヘリに乗り込む前に彼女が美容院に立ち寄り、二時間戻らなかったという事実に、拭いがたい違和感を覚えていた。「なぜなのか」と繰り返されるその言葉を聞いた桜木紫乃は、フィクションの器に移し替えることで掬い上げられるものがあるのではないかと考え本作を生み出した。
『異常に非ず』は二層で成り立っている。ジャズの音楽のように表層にはテンポ良く流れる潮流がある。読者はその流れで事件の推移を追う。しかし深層には強いエネルギーを持つねっとりと絡みつくような渦があり、それが時として上に向かい突き上げて表面の流れを蛇行させる。小説に描かれた事件を追う記者は、表層の流れを丹念にたどりながら、やがてその深層にうごめく渦──社会や文化に根差した無意識の心理的束縛、いわばゴーストに気づき、引き寄せられていく。記者のまなざしは、すなわち作者自身のまなざしでもある。
犯人花川清史の育った時代は、戦後の高度成長期だ。しかし、貧しい家庭に生まれた彼の心には生まれた瞬間のスタートラインで不当な差がついているという怒りがある。一方母親のカヨは、貧しい家庭に生まれ、遊郭に飯炊き女として売られた過去を持つ。美しくなく丙午生まれで教育も満足に受けられず、同じように血縁がいないという夫と結婚して、四〇歳を過ぎて生んだのが清史である。女は若く美しくなければ存在価値がない、という心理的束縛が強い社会の中でカヨは自己肯定感を持つことができない。唯一の存在価値は「清史の母親」であるという事実である。
清史はこのことに無意識のうちに気づき、カヨを自分の葛藤や不安のはけ口にしている。母親しか自分の存在を受け止めてくれる相手がいないことで焦燥感を抱えながらカヨと共依存の関係を作り出しているのだ。
清史の恋人の亜紀は目を引くような美貌を持っているが、それしか持ち合わせていない自分を肯定できず自らの生を主体的に切り開くことができない。そんな亜紀は清史にとり便利な存在だ。美しい女を自分のものにすることは、男の虚栄心や見栄を満足させる。こうして清史と亜紀も共依存的な関係で繫がっている。清史、カヨ、亜紀の三人はお互いに依存しあう関係から抜け出せずフラストレーションが高まっていく。
亜紀とカヨは、互いの内に自らの姿を映し出している。カヨが亜紀を娘のように感じるのは、鏡を見るように彼女の中に自分を見ているからだろう。
金や地位、権力、強さが「男らしさ」の尺度、若さや美しさ、性的魅力が「女らしさ」の価値──そうした観念は、人々を縛る見えないゴーストのような心理である。清史が最後に選んだ行為は、善悪という世間の枠組みから逸脱することで、そのゴーストの鎖を断ち切ろうとする試みだったのではないか。清史が残した「オレは精神異常やない。道徳と善悪をわきまえんだけや」という言葉は、まさにその内奥から噴き上がる叫びだったのではないか。清史と同じ歳で毎報新聞の連載特集「異常に非ず」の取材をつづけている海原将志はそれに気づき愕然とする。自分もまた、同じゴーストに縛られているのではないか、と。その問いが胸に迫る。
当時よりも経済格差が拡大し、人々を縛るゴーストの鎖も一段と強まっている今、本作品の投げかける問いは鋭く心に響く。自己肯定感を他者の賞賛や可視的な財産に委ねることの危うさ──本作はそれを象徴的に描き出している。だからこそ、最後に亜紀が自らの意思で一歩を踏み出す兆しを見せたことが、救いとして心に残り、それは作者が置き忘れられた人に向ける温かな眼差しのように感じた。
(うみはら・じゅんこ 心療内科医)


