書評
2026年5月号掲載
生きている人の側の小説
ローリー・ムーア『死んでいる元カノとの旅』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『死んでいる元カノとの旅』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ローリー・ムーア/栩木玲子 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590207-0
この小説の原題と日本語版のタイトルはずいぶんちがう。翻訳者の栩木玲子氏の解説によると、原題は直訳すれば『ここがウチ、でなきゃ私はホームレス』だ。魅力的なタイトルだけれど、採用された『死んでいる元カノとの旅』のほうがずっとわかりやすいことはたしかだ。これは本当に「死んでいる元カノ」と短い旅をするという内容の小説なのだから。
けれど、「死んでいる元カノ」もそんな元カノと旅をする人物もすぐには登場しない。
この小説には、死者と話す人物が二人いる。一人目は南北戦争の終結直後のテネシー州で下宿屋を営むエリザベスだ。彼女は死んだ彼女の妹に宛てた手紙の形式で、日記を綴っている。小説は、彼女のこの日記からはじまる。
二人目が「死んでいる元カノ」と旅をすることになる高校教師のフィンだ。彼が生きているのは2016年、ドナルド・トランプが大統領選挙に勝利する直前のアメリカだ。フィンは死を目前にしている兄を見舞いにニューヨークのホスピスを訪れる。兄のマックスとフィンの会話がはじまる。彼らは、32ページから74ページまで話し続けている。いや、話しているのはおもにフィンだ。話すのをやめたとたん、マックスが死ぬかのようにフィンは話す。
そのあと、元カノのリリーが自死したことを知ったフィンは、彼女が埋葬された墓地へ急ぐ。そこでは死んでいるリリーが死んだままの体で立ち、フィンを待っている。立つことができるばかりか、リリーは話すこともできる。ただちょっと肉体が朽ちかけてるだけ、といった様子だ。フィンとリリーは、リリーが生前に希望していた献体が叶えられる場所へと車で旅立つ。そしてやっぱり、フィンとリリーも話し続ける。話すことで、死が完成するのを先延ばしにできるかのように。
そんな二人の旅に、ときおりエリザベスの日記が挿入される。エリザベスは相変わらず死んだ妹に宛てて書き続けている。エリザベスに死んだ妹の声は聞こえず、彼女は死んだ妹に一方的に語りかけているだけだ。およそ150年のときを経てフィンが偶然彼女の日記を手にするとき、フィンは彼女の切なる願い──死者と対話すること──を叶えている。
エリザベスは、死者との対話を切望する女性といった人物像に対し私たちが抱きがちなイメージとはちょっとかけ離れているかもしれない。彼女には弱々しいところはなく、生活感に満ち、下宿屋で起こったとある問題に冷徹に対処する手腕をも持っている。
フィンとマックスの会話、あるいはフィンとリリーの会話は、とりとめのない、ときには相手をはぐらかすための、ときには気の利いた、ただただ会話を途切れさせないためだけの会話のようであり、そのいっぽうで一言一言がこの上なく重要で、実はすべてが緻密に絡み合っているにもかかわらず、読み進めるほどにその重要さを取り落としながらなすすべもなく先へ先へと進んでしまっているようにも感じさせる。
生きているエリザベスとフィンは、それぞれ言葉を尽くして死者をここにとどめようとしている。つくづくこれは、生きている人の側の小説だと思う。死者とともにあるエリザベスとフィンの日々はそれぞれ騒々しく賑やかで、必死で、あきらめを知らない。
この小説には、人生のめちゃくちゃさがそのまますくい取られているように思う。人生は決まりきっているようであっても実際に決まっているのは死ぬことだけで、そのさなかにいる者にとってはめちゃくちゃなことだらけだ。いろいろあるめちゃくちゃなことの中でも、大事な人の死はその代表例ではないか。
ここには、大事な人の死を受け入れることについては書かれていない。そんなことははじめからできるはずがない。そもそも私たちは、どのような人生のめちゃくちゃさであれ、突然襲来して自分を打ちのめすものを許すことなどできはしないのだ。でもこの小説を読んでいると、そんなめちゃくちゃさに対処しようとして必死になる自分を愛おしく思うことへの一歩を踏み出せるような気がしてくる。
(ふじの・かおり 小説家)


