書評・エッセイ

2013年1月号掲載

不完全な記憶がかたちづくる過去

――ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』(新潮クレスト・ブックス)

川本三郎

対象書籍名:『終わりの感覚』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ジュリアン・バーンズ著/土屋政雄訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590099-1

 ジュリアン・バーンズだから何かとてつもないことが起るとは思っていたが、最後にこんな大どんでん返しのような意表をつく結末が待っているとは。
 物語はごく普通に、平穏に始まる。
 語り手の「私」(トニー・ウェブスター)は現在、六十代のなかばと思われる。長くアートセンターで働いたが引退し、ロンドン郊外で一人暮しをしている。
 妻のマーガレットとは結婚して十二年目に別れた。いまも親しくしている(と「私」は思いこんでいる)。娘のスージーは結婚して二人の子供がいる。娘ともうまくいっている(と「私」は思いこんでいる)。
「思いこんでいる」と書いたが、この小説は「私」という一人称で語られていて、どこまでが事実かよく分からないところがある。
 別れた妻とうまくいっているといっても、三十年近くも前に別れた妻に連絡をとって、昔のガールフレンドとのごたごたの相談に乗ってもらおうとする「私」のことを元の妻が快く思っているとは思えない。「私」の主観と他者が見る「客観」にはずれがある。このずれが物語を面白くしている。期せずしてずれがユーモアも生む。ちなみに「私」の頭にはもう髪がなくなっている。活字ではあまり感じられないが、もし映画化されたら、髪のなくなった引退生活者が昔の恋人を思い出し、四十年ぶりに会おうとするさまは、かなり笑えるだろう。
「私」は思春期のことを思い出す。年齢(とし)をとると人生を振返ることが多くなる。懐旧は年寄りにとって日々の大きな仕事でもある。
 ロンドンでの高校時代。一九六〇年代に高校生だったと思われるから日本でいえば団塊の世代になるだろうか。
 ビートルズとローリング・ストーンズの時代だが「私」は案外、おとなしい青春を送っていた。誰もが六〇年代を生きていたわけではない。「私」はまだ五〇年代の尻っ尾をつけていた。ガールフレンドもいなかった。
「私」の高校にエイドリアンという転校生が入って来る。すこぶる頭がいい。難しい哲学を語る。ひと昔前の青春とは友情の季節だったが、「私」は明晰なエイドリアンに惹かれてゆく。
 大学生になった「私」にようやくベロニカというガールフレンドが出来る。セックスの体験もする。エイドリアンとは大学は違ったが友情は続く。
 このあたりまでは、六十代の引退生活者が青春時代を懐しく思い返しているという平凡な形をとっている。どこかE・M・フォースターの小説を思わせたりもする。ジュリアン・バーンズにしては普通だなとうっかり思ってしまう。
 平穏な青春時代だが事件らしい事件がふたつ思い出されてくる。ひとつは、週末にベロニカの家に遊びに行った時、居心地が悪く、屈辱を覚え、そのあとベロニカと別れたこと。
 もうひとつは、エイドリアンがそのベロニカと付合い始めたこと、そのあとエイドリアンがなぜか二十二歳の時に自殺してしまったこと。
 六〇年代世代にしては平穏な青春を送った「私」だが、このふたつの出来事が記憶のとげになっている。
 さてここからようやく物語が大きく動き出す。
 静かに引退生活を送っていた「私」のところに突然、四十年前に別れたベロニカの母親から弁護士の手を通して五百ポンドの金が届く。「私」自身、忘れかけていた、そして、読者の記憶にもほとんど残っていなかったベロニカの母親がなぜここで登場するのか。
 しかも、すでに死亡したベロニカの母親は「私」になぜかエイドリアンの残した日記を遺贈しようとしていたらしい。
 このあと、なんとかその日記を手に入れようと「私」が相手の弁護士としつこくやり合うドタバタ劇があり、そこは大いに笑わせるが、その笑いのあとに思いもかけない展開になってゆく。さすがジュリアン・バーンズと驚かされる。
 ミステリ仕立てにもなっているのでこの先を書くのは控えるが、主観と客観のずれの大きい「私」が気づかなかった、思いもかけない過去があらわになる。
 高校時代、「私」は歴史の授業で教師に、あるフランス人のこんな名言を得意になって披露した。「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」。この「歴史」を「青春時代の思い出」と置き換えればこの小説にぴったりかもしれない。

 (かわもと・さぶろう 作家)

最新の書評・エッセイ

ページの先頭へ