書評
2013年3月号掲載
「宮本武蔵」と「三国志」
――吉川英治『三国志』『宮本武蔵』(新潮文庫)
対象書籍名:『三国志』(三)(四)/『宮本武蔵』(二)(新潮文庫)
対象著者:吉川英治
対象書籍ISBN:978-4-10-115453-4/978-4-10-115454-1/978-4-10-115462-6
あまり知られていないことだが、父英治が「宮本武蔵」を書いたのは、昭和初めの菊池寛氏と直木三十五氏の論争がきっかけだった。
昭和七年のことである、武蔵を名人とする菊池氏と、それを否定する直木氏との間に論争が起こり、そのうち英治をも巻き込んで過熱した。毒舌家の直木氏は新聞、雑誌上で菊池氏の肩を持つ英治をも盛んに挑発したらしい。英治は後にこう書いている。
「そのころ僕はほんの観念的にしか武蔵について知識がなかった。僕は立ち会わないうちから敗れを知っていたから立たなかったのだ。だが、そのまま引き退がるつもりではなかった。宿題として自分に答えうる準備が出来たらお目にかけるつもりだった」
答えは小説にしてお目にかけようと言ったのである。そして三年後の昭和十年、準備を整えて朝日新聞に連載を始めるのだが、当の直木氏はその一年前に四十四歳の若さで死んでしまう。連載は最初二〇〇回の約束で始まったが、回を重ねるにつれ空前の人気小説となり、四年間一〇一三回の大長編となった。英治は「これも亡友の毒舌の恩である」と述懐している。
一方「三国志」は、初版の序文に「これを書きながら思い出されるのは、少年の頃、久保天随氏の演義三国志を熱読して、三更四更まで燈下にしがみついていては、父に寝ろ寝ろといって叱られたことである」とあるように、英治にとって子供の頃からあこがれの物語世界であった。四年間にわたる「武蔵」の連載を終えてわずか一月あまり後に、新聞五紙に「三国志」を書き始めたのを見てもそれがわかる。武蔵連載中からの約束でもあったろうし、演義三国志等数種の底本があったこともあろうが、永年書きたいと暖めていた構想がなければ、長編の新聞連載はおいそれと始められるものではないだろう。
当時、講談社の編集者として英治と親しかった萱原宏一氏も「武蔵の一回分がどうしても書けないこともしばしばあり、そんなときは家全体が重苦しい雰囲気に包まれた。しかし三国志はリラックスして、楽しんで書いておられた」と述懐している。
私にとってこの二作は、「新書太閤記」と共に、暖かい追憶と共にある。
疎開先の吉野村で、英治が終戦と同時に筆を擱き、一切の仕事を断っていた頃のこと。私が小学校一、二年生の時だった。原稿に追われていた時期には滅多にないことだったが、英治を囲んで家族揃っての夕食が多くなった。
そんな時、銚子半分ほどの酒で目許を赤らめる英治は、冗談を言ったり、母に甘えて見せたりして皆を笑わせた。そしてことさら機嫌がいいと、食後、母に小さな机を持って来させ、その前に正座して「子供達に話を聞かせてやろう」と自分の小説を講談風に語って聞かせてくれるのだった。武蔵、小次郎、藤吉郎、関羽、張飛……その時によって主人公は違ったが、私たちにも正座を強いて、講釈師さながら、身振り手振りを交えて語るのだった。話の面白さもさることながら、仕事中には怖くて傍にも寄れない父親が、その時にはすごく優しい人に思えて、私はその時間が待ち遠しかった。
今にして思えば、英治本人にとってもそうした家族との団らんは、生まれて初めての経験だったのではなかろうか。
家が没落し、十一歳から丁稚奉公に出されて職を転々とした少、青年時代は勿論のこと、「剣難女難」で文壇に登場し、前妻との確執、離婚問題なども抱えながら、日夜超人的な枚数をこなしていた昭和の初期にも、英治の周囲にはおよそ家庭と呼べるような環境はなかった。
「武蔵」の連載を始めた年に、武蔵の恋人お通のモデルではないかと取り沙汰された私の母と知り合い、三年後には長男の私、続いて弟、妹と念願だった子供も授かるのだが、そのころでも英治の毎日は“原稿との格闘”だったと萱原氏は述懐している。
しかし、戦後の「新・平家物語」から連載は一本に絞り、家族と過ごす余裕も出来た。ゆったりと幸せな晩年だった。
「宮本武蔵」は、英治の幸せな後半生の序章とも言える作品なのだなと私は思っている。
(よしかわ・えいめい 吉川英治記念館館長・吉川英治氏長男)