書評

2026年4月号掲載

四十代という人生の難所

窪美澄『君の不在の夜を歩く』

藤岡陽子

対象書籍名:『君の不在の夜を歩く』
対象著者:窪美澄
対象書籍ISBN:978-4-10-325927-5

 物語は沙耶という女性のもとに、
〈菜乃子が死んだってよ〉
 というLINEのメッセージが届くシーンから始まる。
 登場人物は沙耶と菜乃子、そして彼女たちの共通の友人であり、高校の同級生の健太と倫子と達也。本書は四十歳を前にした彼らが主人公の、五つの短編からなる連作集である。
 物語を読んでいて私が気になったのは、小説家を目指していた菜乃子が生前に執筆していたという文章の存在だ。
 菜乃子はいったいなにを書いていたのか──。
 それを読めば彼女が死を選んだ理由がわかるのではないか、と私は思い、内容を早く明かしてほしいとページを繰った。作中で菜乃子の夫でもある達也が、沙耶に「この原稿を読んでもらえないかな。読んでもらったら、僕はそれをシュレッダーにかける。ひとつずつ」と亡き妻のパソコンに残っていた文章を印刷したものを手渡す。私はこの場面で、ああこれで菜乃子が書いた文章の内容がわかる、と期待した。ところが沙耶が原稿を読んだそばから達也が用紙をシュレッダーにかけ、読者の私たちに詳しい内容を明かしてはくれなかった。
 だが物語を読み進めていくうちに、徐々に菜乃子の文章の内容が気にならなくなっている自分がいた。
 五つの短編の一作目「窓辺の夕餉に」は沙耶、二作目「野辺の送り」は健太、三作目「空夜」は倫子、四作目「柘榴色の雪」は達也、とそれぞれの視点で物語が語られていくうちに、彼らの現在の心の動きのほうに関心が移っていったからだ。菜乃子の死をきっかけに自分自身の人生と向き合う、いまを生きる彼らの日々が生々しく、苦しく、目が離せなくなった。
 四十代というのは容赦のない時期だ。これまでやってきたことの結果が出揃い始め、未来の輪郭がかなりはっきりと見えてくる。沙耶は菜乃子という人を「人生が劇的に変わることをいつも望んでいた」と評するが、四十歳を過ぎるとほぼ、奇跡は起こらない。それでも子育てをしている人は生活に追われ、駆け抜けるように四十代を越えていく。だが未婚のまま生涯を終える人、結婚しても子どもを持たない人は、悩みの多くが自分に関することなのだ。少子化はいろいろな変化を社会にもたらしたが、子育てに時間と労力を取られないぶん、自分自身と対峙し続けなくてはならない人が増えているのだと、本書を読んで気づかされた。
「何も成し遂げずに生きていくことに耐えられない」
 と菜乃子は書き遺した文章で絶望を語るが、この世のほとんどの人が何も成し遂げずに生きている。沙耶は現状を「私の本当の夢は、結婚をして子どもを産みたいという、凡庸ではあるが、この時代には(私たちの世代では)壮大な夢だった」と嘆き、健太は「自分だって、もうこの世はうんざりだと思う瞬間は幾度もあるのだ。今だってそうだ。それでも、そんな気持ちを仕事で誤魔化して、弛緩した生を続けている」と生を手放した菜乃子に共感を寄せる。倫子にしても「給与だけが目的で仕事そのものに興味なんて持てなかった。(中略)四十を前にして、日々、積み重なる仕事に心は疲れ切っていた」と自身を語る。
 四十代は人生の難所だと思う。老いてはいないが、若くもない。自分の歩いてきた道を振り返り、そこに価値を見いだせなかった時、この先歩き続ける気力が湧くかどうか。
「もう人生面倒くさい。あと何年続くの。それが知りたい。それがわかったらまだ我慢がきく」
 とは菜乃子の言葉であるが、仮に寿命が八十数年だとしたら、四十代はまだあと半分生きなくてはいけないのだ。
 私は著者の小説が大好きで、これまでの作品はほぼすべて拝読している。著者が書く小説は、私たちにきれいごとではない現実を見せてくれる。登場人物たちの苦悩を釘でガラスを引っかくような筆致で綴り、心をひりひりさせられることもある。だが著者はいつもこのひりつきを、きちんと手当てしてから物語を閉じてくれる。
 本書でも五作目「芍薬の星月夜」では必死に生きてきた沙耶、健太、倫子、達也の傷に著者はそっと手を当てている。菜乃子が亡くなったずっと後のことまで書かれていてちょっと驚く展開なのだが、この編では菜乃子がなぜ小説を書きたかったかが明かされる。私と同様に、彼女が遺した原稿の内容を知りたかった読者を納得させる、光のような言葉が差し出されるのだ。
〈菜乃子が死んだってよ〉
 胸を冷やすこんな台詞で始まる物語は、ラストまで読むと全身が温まるような印象に変わる。本書は日々を懸命に生きる人々の孤独を浮かび上がらせ、そして癒す、いま必要な物語である。

(ふじおか・ようこ 小説家)

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