書評

2013年5月号掲載

教えるために生きている「職人」の指導者哲学

――井村雅代/聞き手・松井久子『教える力 私はなぜ中国チームのコーチになったのか』

松井久子

対象書籍名:『教える力 私はなぜ中国チームのコーチになったのか』
対象著者:井村雅代/聞き手・松井久子
対象書籍ISBN:978-4-10-120216-7

「日本の水泳連盟はバカよねぇ。あんな素晴らしい先生を、中国に渡してくれちゃうんだもの」と呟いたのは、本書の原稿を書いている途中、たまたま行ったネイルサロンで担当してくれた中国人のお嬢さんである。
 私は俄然面白くなって、
「どうしてそう思うの? 井村さんが自分で行ったんじゃないの?」と聞いてみると、
「違うよぉ。水泳連盟から追い出されたのよぉ」と、得意げな顔で言うのだった。
 北京、ロンドンと、二度のオリンピックで中国シンクロにメダルをもたらしてくれた井村先生は、私たちの恩人であり、中国の熱烈なファンたちは、彼女が海を渡った本当の理由を、ネットなどで読んで知っているというのである。
 そして続いた中国娘の論によると、日本とは「勝つことよりも、組織を守ることの方が大事な国」なのであり、「強い女は嫌われる社会」なのだそうだ。
「私が鬱陶しかったんと違いますか?」
 インタビューのはじめに、日本のコーチを外れた理由を訊ねる私に、井村さんはからからと笑いながら答えてくれたが、確かにそのひと言が、私が本書の聞き書きを買って出た動機のひとつではあった。
 北京五輪から戻り、ロンドンオリンピックに向け、もう一度日本のナショナル・コーチに戻る可能性を探っていた彼女が、「年齢オーバー」を理由に水泳連盟から断られたという信じられない話は、作った映画三本のうち二本をアメリカで撮らねばならなかった自分の体験と重なって、とても他人事と思えなかったのだ。
 しかし、映画監督の仕事なら「女の出る幕じゃない」と鬱陶しがられることが百歩譲ってあり得るとして、シンクロナイズド・スイミングの指導者はすべて女性である。
 何故、彼女は排除されたのか?
 また、中国に行った彼女には、いつまでも「裏切り者」や「売国奴」といったバッシングの声がつきまとった。
 真相は本書の中に詳しいが、私は話を聞きながら、改めて日本社会の巧妙さについて、考えさせられることになった。
 彼女を外したかったのが誰なのかもはっきりしない、「未必の悪意」のようなものが働いて、できる人が組織から追い落とされ、外されていく社会。そこには男も女もなく、ただ「妬みの文化」という日本社会の伝統があるのみだ。
 畢竟、彼女のような生き方と個性の人は、この国を出て、外で仕事をする方が賢明である。が、一方で、
「自分の教え方が役に立つなら、何処で教えてもいいんですよ」という彼女の言葉が、私にはどうしても本心と思えないのだ。
 何故なら、彼女が自分のクラブで教えた選手たちが今年も日本選手権で優勝して、日本代表選手に選ばれる筈だから。そして手塩にかけた秘蔵っ子たちが代表に選ばれたら、選手たちは自分の手を離れ、新しいナショナル・コーチのもとで世界選手権やオリンピックを戦うことになるからだ。
 勝てる可能性がある自分の選手を、最後までみてやることができない。そんな理不尽な話があるだろうか。
 それでも彼女は、選手たちのために、己を殺すのである。
「選手生命は短いですからね」
 アスリート・ファーストがスポーツの基本だから、組織のもめごとで選手を犠牲にすることはできないと言うのである。
 この本の出版後、彼女は英国シンクロ連盟に招かれて、三ヶ月間、イギリスチームの指導に旅立つことになっている。
 根っからの職人である人は、教える場がなくては生きていけないのだろう。四十年間、脇目も振らず、ひたすらコーチの仕事に没頭し、培った指導者哲学を選手たちに叩き込み、勝ち続けることができれば幸福な人なのだ。
 だから本書の中でも、私がここで書いているようなジェンダー論や文化論にはほとんど触れていない。
 内容はあくまで、彼女のコーチ人生をつぶさに辿ったスポーツ・ドキュメントであり、説得力のある指導者論である。
「ひとつ仕事」に打ち込むとはこういうことなのだと教えられる貴重な一冊を、ぜひ読んで頂きたい。

 (まつい・ひさこ 映画監督)

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