書評

2015年8月号掲載

「私」を遥かに超えるなにか

――上田岳弘『私の恋人』

江南亜美子

対象書籍名:『私の恋人』
対象著者:上田岳弘
対象書籍ISBN:978-4-10-121261-6

 旧石器時代を生きるクロマニョン人の「私」、ナチスの強制収容所において息絶えたユダヤ人の「私」、そして現代の東京で働く日本人の「私」。彼らは十万年の時を超えて転生し、いま三人目に行きついた、記憶を共有する人物である。一人目は非凡なる知性と推察力で、シリアの洞窟に今後の人類がたどる歴史を予見的に書き記し、二人目は究極的な暴力と迫害を自らの身をもって体験した。三人目は凡庸な人物だが、先の二人が激しく憧憬しながらも叶えられなかったことをなそうとしている。それは、三人にとっての運命の女性、たまらなく可愛い「私の恋人」を得ることである。
 三人目である井上由祐は、東京でオーストラリア人のキャロラインと出会う。いまは反捕鯨団体の活動に携わる彼女だが、かつては麻薬中毒で「墜ちた女」を体現していた過去も持つ。そのぎりぎりの底辺で、生まれ持った出来の良さが発動し、更生すると同時に美貌も取り戻したのだった。
 彼女の活動は、更生過程で出会った高橋陽平の遺志を継ぐものである。彼はキャロラインにこう説いた。「人類は今三周目にいる」。ここからこの小説はさらにスパークする。
 一周目で人類は、地球上に住みうる土地の最果てまで到達した。二周目で土地の収奪と利権争いを激化させ、ナチスによるガス室と原爆投下を生んだところで、覇者が勝つためのルール整備が完成した。そして二〇世紀末から始まった三周目では、グローバリズムが自明化した世界の陰で、コンピュータとウエブの発展が国境というバウンダリーを無効化し、人間の内的な結びつきを駆動させるというのが、高橋の持論である。そして三周目は、コンピュータによる人間を超えた知性=「彼ら」の出現により、終わるのだ、と。
 しかし高橋は、その三周目の人類が行きつくべき、内的な結びつきの具体的な事象は、見届けずに死ぬ。ゆえに彼の代わりに、キャロラインは考察と行動を続ける。そのひとつの試みが、「倫理」の拡張的な適用としての、反捕鯨なのだ。
〈「かわいそう、思うのは自分に近い存在だから。そうですね? ロブスターより鶏かわいそう、鶏より豚かわいそう、豚より鯨かわいそう、鯨よりイノウエかわいそう。近いところからゆっくり広げていって、かわいそう、広げていくの」〉
 この「かわいそう」の拡張という原理には、当然ひとつの疑問が残る。形式/定式化された最大公約数的な「倫理」を、いびつなまでに拡張したなら、理念自体を崩壊させることになるのではないかというものだ。だからこそ井上由祐が、つまり十万年ぶんの全人類である「私」が、恋焦がれている「私の恋人」が果たしてキャロラインで正解なのかは、最後まで確定的には描かれないのだろう。倫理が無限に拡張した世界が、人類だけを特権的に愛し、優しく包み込んでくれる「恋人」となりうるかという問いと、そこは重なるのだから。
 しかし恋とは、相手への賭けである。自分に特権を与えてくれる相手だから好きになるものでもないことは、ごく卑小に(転生などせず)ありふれた生を送る私たちも、よく知るところだ。井上は、いまいち自分を真に愛してはくれない(おそらく高橋を想う)キャロラインに、それでも執着する。
〈私の恋人のその紅潮した頬、居丈高な語り口。私は静かに胸の高鳴りを味わっていた〉
「私の恋人」とは、「私」という十万年ぶんの英知が、それに賭けたいと思う、「私」を遥かに超えるなにか、なのだ。人類が死絶したあとにも残る、時間そのもののような……。
 本作は、一風かわった語り手を用いて、長きにわたる人類史を描いた小説であるといえる。発展の歴史、暴力の歴史、システムが人間の前に立ちはだかる歴史、そして能力主義を無効にする人工知能の創出の歴史。しかしながら本作が、文化人類学の学術書と決定的に異なるのは、この「恋」ないしは「私の恋人」という、想念上の営みを中心に据えた点にあるだろう。これぞ小説的想像力と感嘆させられる。
 最高にロマンティック、最高に革新的。『私の恋人』は、上田岳弘という現われたばかりの新しい才能を世に広く知らせるに十分な、読者の胸を躍らせる作品である。

 (えなみ・あみこ 書評家)

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