書評

2018年6月号掲載

液状化させ攪拌して最後に残るもの

――原田宗典『〆太よ』

三輪太郎

対象書籍名:『〆太よ』
対象著者:原田宗典
対象書籍ISBN:978-4-10-381107-7

 私は原田さんより少し年下だが、ほぼ同時期に同じ大学の空気を吸って二十歳前後をすごした。「ガランドウの明るさ」、それが八〇年代初めの大学の空気だった。
 学生運動への道にはすでに「通行止め」の標識が立っていた。一挙にして全面的に世界を了解し読み換えたいと願う若者たち(いつの時代にも一定割合の若者たちはそう願うものだろう)は、自身の外部でなく内部を読み換えて世界の見え方を一変させる各種新興教団へ脚を踏み入れた。各種のひとつにオウム真理教の前身もある。私も各種のひとつに脚を踏み込み、あげくに抜けた。が、教団から抜けても、正しさから抜けられない。いったん信じた正しさを溶かしきるまで、十年以上の月日がかかった。だから、オウム真理教事件を他人事とは思えない。どこで、なぜ、どう、何が間違ったのか、ひそかに問いつづけてきた私に、『〆太よ』との出逢いが待っているとは思わなかった。
「大学に入って自分の平凡さに気づいて何をどうしたらいいかわからなくなった。誰もいない野原に一人で立っている感じ。確かに自由できもちがいいんだがじゃあ一体そこで何をしたらいいんだって感じ。おれにとって大学ってのはそういう場所だった」
 語り手の「おれ」は二十歳のとき、中年ジャンキー西田さんと出遭い、これがきっかけで「天使」にはまる。「天使」がもたらしてくれたのは、宗教よりも効率よく世界を一挙にして全面的に了解し読み換える力だった。「おれ」はドロップアウトして、裏ビデオの配達で暮らしを立てる。できるだけ世間知らずなことをして、人に迷惑をかけない範囲であらゆるルールを破ることを信条として。
 西田さんは人生を何気なく棒にふることを遊びと心得る人だ。馬鹿ばかしいことをだれよりも生真面目にこなす。ときには常軌を逸したやさしさを発揮して、「おれ」のために行方不明の金田香を探し出してくれる。
 金田香は在日朝鮮人二世の風俗嬢、しかし、彼女にとってセックスはドラッグであり宗教であり芸術でもある。彼女とのセックスがもたらす快感を、著者はこう描写する。
「それは飛ぶようでもあり沈むようでもあり速いようでいて遅く重いけれど軽やかでようするに正反対の印象が同時に存在する瞬間だ。まるでおれ自身が柔らかい万華鏡になって上下左右に回転しながら内側でちらちら変化する五感の粒を味わっているみたいな」
 ある日、「おれ」は新宿のバッティングセンターで〆太と遭う。〆太は生まれつき目が見えない。十三歳のとき火事で母を失う。父は裏世界のボス。杉並区永福の豪邸に暮らしながら町内会の消防団に入り、拍子木を打って「火の用心」の夜まわりに励む。
 西田さん、金田、〆太、「おれ」、不可思議な四人のからみで物語が進行するが、急転直下、オウム真理教が物語の軒を奪っていく。読者は富士の裾野のサティアンに西田さんがいることを知る。さあ、そこから教団とのシャブの争奪戦がはじまる......。
 この小説にはモノサシが利かない。青春小説、恋愛小説、宗教小説、ポルノ、サスペンス、いずれのモノサシからも作品がハミ出してしまう。私は途中からモノサシで測ることを断念せざるをえなかった。そして、読み終えてから気づいた。これは一つの実験であるということに。宗教とセックスとドラッグをこき交ぜて、世間の価値をとことん液状化させ、善悪正邪美醜の境を融解し、ぐるぐるぐるぐる攪拌して、それでも溶かしきれずに残るものは何か、確かめる実験。
「オウムの欠点はズバリ美しくないところだ」と「おれ」がきっぱりいう。西田さんも金田も〆太も「おれ」も、乱倫でありながら倫理的、野放図でありながら生真面目、崩しても崩しきらない「美」を帯びる。いや、「粋」というべきだろう。「粋」のなかに宗教を超えた宗教的「質」がこもる。
 あらゆるモノサシを拒む型破りの外観を持ちながら、世間の顔を突き抜けた向こう側を見つめる態度を小説は頑なに守る。これぞ極道にして王道、と私は唸る。

 (みわ・たろう 作家)

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