書評・エッセイ

2018年8月号掲載

悪魔がスーパースターになった時代

浦久俊彦『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝』

浦久俊彦

対象書籍名:『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝』
対象著者:浦久俊彦
対象書籍ISBN:978-4-10-610775-7

 われながらヘンな主人公を選んでしまったものだ。いまから二百年もまえの西洋クラシック音楽というまじめな世界に属する音楽家の評伝を書くのに、選んだのがよりによって悪魔と呼ばれたヴァイオリニストとは!
 でも書くと決めてしまったのだから仕方がない。とはいえ、いまでも冷や汗が出るのは、とにかく書けなかった日々である。まるで金縛りのように固まって筆が動かない。もしかすると悪魔に取り憑かれたのではないか、お祓いでもしてもらった方がいいのではないか。でも西洋の悪魔ならば日本の神社ではなく、やはりキリスト教の悪魔祓いだろうか? などと一時は真剣に悩んだものだ。やはり相手が悪魔だと、書き手にも相応の覚悟が必要ということなのだろうか。
 このような日々のなかから生まれた本である。書いていたというよりも、さまよっていたという方がよりふさわしい。この本を書きながら、ぼくはたしかに奇妙な世界をさまよっていた。そこは、主人公パガニーニが活躍した十九世紀革命期のヨーロッパというよりも、人類がAIに魂を売り渡してしまった近未来の世界のようでもあった。圧倒的な知能で民衆はそれを神のように崇め、サイボーグのような超絶パフォーマンスで群衆を虜にするスーパースター。しかし、肌を剥がせば、ハイパー繊維でできた強靱な筋肉と、鈍く光る超合金性の骨格があらわになる。
 ところが不思議なことに、その近未来の風景のなかに、十九世紀ヨーロッパの激動の世紀が透けてみえる。時空を超えて、十九世紀の煤けたようなヨーロッパの街並みと、無機質な金属色に輝く未来都市がクロスするような奇妙な感覚を、ぼくはこの小さな本を書きながら何度も味わった。
 革命期の十九世紀ヨーロッパは、悪魔がスーパースターになった時代である。かつては神の敵であった悪魔が、教会と結びついた王制や権力への反逆の象徴として、まるで民衆のヒーローのように君臨した時代。この時代に巻き起こった空前の悪魔ブームは、文学、演劇、音楽などあらゆる表現として社会に浸透し、さまざまな影響をもたらしながら、そのままディアボリズム(悪魔主義)と世紀末デカダンスに雪崩れこむ。そして、凄まじい破壊と欲望とパワーがうごめく新世紀へと突入する。現代はそのなれの果てともいえるのだ。
 もしかすると、十九世紀の民衆たちが、パガニーニの圧倒的なパフォーマンスにふれて、思わず悪魔と叫ばなければならなかった恐怖は、未来がAIに支配されるという漠然とした不安を抱えて生きる現代人の恐怖に通じるのかもしれない。この本を書き終えたいまも、そんなことをぐるぐると考えている。まだしばらく、ぼくのなかからパガニーニという悪魔は消えてくれそうにない。

 (うらひさ・としひこ 文筆家・文化芸術プロデューサー)

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