書評
2018年11月号掲載
「矢来町のたからもの」という展覧会
――自筆資料を目の当たりにする、すばらしい体験
原稿や書簡など、文学者の自筆資料のエネルギーや面白さに眼を見張る体験をすることが、わたくしの半世紀の近代文学研究の経歴の中で、何度かあった。時代を生き抜いた文学者の作品を読み続けてきてよかった、と思える瞬間だ。東京オリンピックの年、日本近代文学館の設立に尽力された恩師稲垣達郎先生のお手伝いをし、生誕百年記念二葉亭四迷展の飾り付けに立ち会った。ベンガル湾上で亡くなる時の、絶筆になった体温を記した数字が記された手帳が、眼の前にある。知らぬ間に、涙がにじんで来た。伊勢丹美術館で開かれた文学館創立25周年記念「夏目漱石展」(1987)は、編集委員の一人として開催の前日、職員の方々と全国から集められた漱石資料をどう並べるか検討した。『猫』『三四郎』『明暗』など自筆原稿の実物を前にし、これらの資料を見ている自分は何なのかという思いに囚われた。岩波書店で、漱石を研究する妻と、漱石宛の三〇〇枚の絵はがきを前にした時も同じである。
昨年夏前に、「波」編集長の楠瀬啓之さんから、新潮社の元会長宅に伝わる漱石の資料が確認されたので見てほしい、と連絡があった。漱石と新潮社とのつながりは、その晩年に文集『色鳥』を刊行、『大正六年文章日記』に「則天去私」の四文字の揮毫を寄せてもらうなどわずかだがあり、その関連資料かと思い、新潮社のある矢来町に向かった。
最も印象的なのは、戦後「新潮」に四回連載された太宰治『斜陽』の原稿四枚である。『斜陽』原稿は、その殆どが美知子夫人から寄贈され、日本近代文学館が所蔵している。が、それには六枚分が欠けている。そのうちの四枚なのだ。クライマックスの連載最終回の冒頭、「姉さん。/だめだ。さきに行くよ。」という「直治の遺書」の部分がある。楠瀬さんに説明するわたくしの声も、震えていたかもしれない。秋になって調査が進み、『斜陽』の原稿出現など、その内容は新聞でも取り上げられた。
これら、佐藤俊夫新潮社元会長旧蔵資料は、今後新潮社が保管する漱石関係の資料を除き、今年の八月に日本近代文学館に寄贈された。『其面影』草稿を写真版で収録した『「文豪とアルケミスト」文学全集第二期』も刊行される。今回多くの関係者に支えられ、展示に工夫を重ね、駒場の日本近代文学館で、「矢来町のたからもの」と題する受贈記念展を開けたことは、一年間この時を待ち続けたわたくしにとって、うれしいの一言に尽きる。漱石資料も、特別出品していただいた。日本近代文学館は、渋谷から京王井の頭線で二駅、ハチ公像から十五分で訪れることが出来る駒場公園の中にある。一人でも多くの人が、自筆資料を目の当たりにする、すばらしい体験をしてほしいと、願わずにはいられない。
(なかじま・くにひこ 早稲田大学名誉教授/日本近代文学館専務理事)
「矢来町のたからもの」展は日本近代文学館で十二月一日まで。