書評・エッセイ

2019年11月号掲載

プロデュースと鉱物的輝き

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ 魅惑者』

西崎憲

対象書籍名:『ロリータ 魅惑者』
対象著者:ウラジーミル・ナボコフ著/若島正 後藤篤訳
対象書籍ISBN:978-4-10-505610-0

 本書は全五巻の叢書「ナボコフ・コレクション」の最終巻である。このシリーズのブックデザインは秀逸であり、その美しさに各所で感嘆の声があがっている。『ロリータ 魅惑者』というタイトルでわかるように、代表作『ロリータ』と先行作品「魅惑者」が収録されていて、前者はナボコフ自身のロシア語版『ロリータ』の情報をもとに改稿が施されている。後者はロシア語からの翻訳である。
 ウラジーミル・ナボコフ。二十世紀の文学的怪物の一人である。生年は一八九九年であるが、この年はほかの怪物たちが誕生した年でもあって、J・L・ボルヘス、E・ヘミングウェイ、E・ボウエンが同年に呱々の声をあげている。その偶然性を思う度に評者は微かに畏怖を覚える。
『ロリータ』が出版されたのは一九五五年、第二次大戦が終わって十年経ち、若者たちの文化が目立ちはじめた時期、ロックンロールの台頭がはじまった年である。
 ナボコフはその頃は大学で教鞭をとっていたが、『ロリータ』はどこの出版社にも拒絶された。ナボコフ自身の言によると、ある出版社は、これを出したらわたしもあなたも刑務所行きです、と言った。はじめて刊行されたのはフランスにおいてである。アメリカでの刊行は一九五八年、三週間で十万部売れた。
『ロリータ』が何を扱った作品であるのか知らない者は少ないだろう。少女にたいする性愛的感情、それがこの本の主題である。ハンバート・ハンバートと仮の名前を名乗る人物が勾留中に書いているという体裁をとっていて、あるいは小児性愛(ペドフィリア)的作品とも言えるのだが、ハンバート・ハンバートが愛するニンフェット(造語である)ロリータは十二歳であり、のちにロリータが少女でなくとも愛するといった意味の言葉も述べているので(三八三頁)、対象がより幼いペドフィリアの語にすべて回収させることはおそらく無理だろう。
 ただ、この作品が「個人の性向・性質」そしてそこから生ずる何らかの「収奪」を描いていることは確かであり、その点で評者はサド『悪徳の栄え』、マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』そしてやや角度が違うがジョージ・バーナード・ショーの『ピグマリオン』を連想する。
 ナボコフはもちろん文学者という枠で語られることが多い。亡命という特別な経験を持ち、複数の言語に通じ、比類のない知性を具えた作者、魔術的な筆力の作者、そのようなイメージをもつ読者は多いだろう。それは間違ってはいない。そしてそのイメージにそって有益なことを語れもする。しかしここではすこし違うナボコフ像を呈示しておきたいと思う。その像とはプロデューサーとしてのナボコフというものである。
 半世紀経った現在、『ロリータ』におけるナボコフのプロデューサーとしての側面は明らかではないだろうか。ナボコフは人間の本質的な属性を抽出し、整理し、パフォーマーを創り、演技指導し、文章という場で公演を行った。
 公演なので、フィーチャリングは必須だった。熟考のすえのフィーチャリングは少女への性愛的感情、ハンバート・ハンバートという絶妙の名付け、殺人をおかして収監中の者の手記という体裁、次々と意外なことが起きるジェットコースターノベル的展開だった。先行作と言われる「魅惑者」と比較していただきたい。きわめて真面目な文学であるこちらはつまりはプロデュース前の姿なのだ。
 あるいはナボコフとプロデュースという概念を結びつけることに眉をひそめる小説愛好者もいるだろう。しかしナボコフ以前の文学的怪物シェークスピアの名をあげると納得してくれるはずだ。こちらをプロデューサーと言っても誰も怒ることはできない。実際そうだったのだから。
 文学とプロデュースは相反するものではない。シェークスピア作品はプロデュースの力によって四百年生きているし、『ロリータ』もおそらく長い生命を持つだろう。そしてふたりがアフォリズム的表現の名手であったことに言及するのは有益である。ナボコフはほんとうに短い語句の達人で、『ロリータ』のどのページを見ても、鉱物のような輝きを見せるフレーズで溢れている。
「甘く熟して腐りかけのヨーロッパ」
「ネオンサインが我が心臓より二倍ゆっくりと瞬いていた」
「思い出よ、思い出よ、私にどうしろと言うのだ?」

 (にしざき・けん 作家、翻訳家、電子書籍レーベル惑星と口笛ブックス主宰)

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