書評

2020年9月号掲載

医学知識を介して斬新な謎から意外な真相へ

知念実希人『神話の密室 天久鷹央の事件カルテ

村上貴史

対象書籍名:『神話の密室 天久鷹央の事件カルテ(新潮文庫nex)
対象著者:知念実希人
対象書籍ISBN:978-4-10-180197-1

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 なかなかに愉しく読める本格ミステリである。
 知念実希人の『神話の密室』のことだ。
 この作品、《天久鷹央(あめくたかお)》シリーズの最新刊であり、実に十一作目となる作品だが、著者が「どこからでも読める」ことを意識して執筆しているだけあって、本書から読んでも問題ない。
 その『神話の密室』には、二つの中篇が収録されている。「バッカスの病室」と「神のハンマー」だ。両作ともに密室ものであるが、事件の演出は相当に異なっている。まずは前者を紹介しよう。こちらで描かれる密室は、いかにも密室らしい密室なのだが、密室の中身がユニークだ。
 舞台となるのは、天医会総合病院の精神科病棟である。アルコール依存症の治療のために入院していた宇治川心吾が、病室のなかで酩酊しているところを見舞客に発見されたのだ。病室は個室であり、室内にいたのは宇治川ただ一人。だが、室内から酒は発見されなかった。液体を入れられる容器すらない。その後、医療スタッフや見舞客の動きを分析した結果、誰かが酒を持ち込んで飲ませることも不可能であることが判明した。では、酒があるはずのない部屋で、入院患者は如何にして酔い潰れることができたのだろうか......。
 というところで「バッカスの病室」の紹介は一休みして、「神のハンマー」を紹介するとしよう。
 こちらの舞台は、キックボクシングの日本タイトルマッチのリングだ。約千人の観客の視線が注がれているだけでなく、映像としても記録されていた。そんな場所で、挑戦者である早坂翔馬は、勝利を収めた直後に倒れ、搬送先の天医会総合病院で死亡したのである。だが、その死因が不明だった。格闘技の試合後に心停止に至る場合、頭蓋内に大量の出血があるのが通常だが、早坂をCTで検査してもその痕跡はなかった。さらに、早坂の妻からは、彼が「自分は殺されるかもしれない」と言っていたとの情報ももたらされる......。
 いずれも実にチャーミングな謎の設定である。手段も不明なら目的も不明。なんなら犯人の存否すらも不明である。しかしながら、不可思議な状況はたしかに存在しているのだ。病室という密室のなかの孤独な酔漢として。あるいは、衆人環視のリングで倒れたキックボクサーとして。
 これらの謎に挑むのが、天久鷹央である。童顔のため時折中学生に間違われるが、そのたびに「私は二十八歳のれっきとしたレディだ」と憤慨する彼女は、天医会総合病院の医師であり、その抜群の能力を活かして、他の科で診断がつかなかった患者を診察して病名を突き止める統括診断部の部長を務めている。病院の理事長の娘でもあり、副院長も兼務している。そんな立場にありつつも、人付き合いは極端に苦手なのだが、最近は、大学病院から派遣されてきた男性医師――鷹央の二歳年上の小鳥遊優(たかなしゆう)――が、鷹央の部下として診断医のノウハウを学びつつ、対人関係を支援している。
 本書において鷹央と小鳥遊は、酔漢やキックボクサーの関係者から情報を集め、ときには警察からも情報を集めて事件の真相を見抜いていくのだが、そこで活用されるのが、医師としての才能だ。前述した謎の魅力に加え、真相への導線に医学知識が組み込まれている点が、このシリーズのミステリとしての特徴である。素人にも判るように平易に語られる医学知識が、意外性という果実をもたらしてくれるのだ。新鮮で美味である。しかもその医学知識を活かした謎解きは、小鳥遊の成長を促す鷹央という構図で描かれており、小説としての滋味も堪能できる。人気シリーズであるのも納得だ。
 さらに注目すべきは「バッカスの病室」の酔漢である。彼は人気推理作家という設定で、彼の妻や見舞客の編集者を通じて語られるミステリ作家の心境や出版界の状況も興味深い。また、鷹央と小鳥遊が『占星術殺人事件』や『十角館の殺人』などについて語る場面も愉しく読める。ちなみに知念実希人は、『占星術殺人事件』の著者である島田荘司が選者の「ばらのまち福山ミステリー文学新人賞」でデビューした作家だ。そんな著者のミステリ語りという興趣も添えられたこの一冊から《天久鷹央》シリーズに入り、水のない密室での溺死事件をはじめとする謎の数々に親しんでいくのも悪くない――というか積極的にお薦めしたい。シリーズ読者の方は、「神のハンマー」で鷹央が小鳥遊に与える"試練"をお愉しみに。

 (むらかみ・たかし 書評家)

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