書評
2021年2月号掲載
『母影』刊行記念特集
此の世をもうひとつの眼で見るための子供
対象書籍名:『母影』
対象著者:尾崎世界観
対象書籍ISBN:978-4-10-104452-1
私が子供(小学校低学年)の頃、周囲の大人は近視のことを近眼《きんがん》と云っていた。私の母親はこれを、ちかめ、と発音していた。子供の私はこのことに対して違和感を抱かなかったが、ちかめ、という言い方には未開・土俗の響きがあることは薄々感じており、自分自身は、ちかめ、という言葉を使わなかった。
母親はその、ちかめ、であった。そのため遺伝の法則により中学に進む頃より私も、ちかめ、になった。その頃より私は意識して近視という言葉を使うようになった。
そういう自分だから、近視眼的、という言葉を聞くと、なめとんのか、と思う。近視と近眼を混ぜるなボケ。言うなら近眼的、か、近視的か、どっちかにせぇ、と思うのである。
といってでも人がその言葉を使うときに言いたいこと、というのはこれは理解できる。つまり全体を見ずに部分だけを見て判断することを批判してこんな言い方をするのであるが仰る通りで全体を把握しないで部分だけを見ているといろんなことを間違う。だから、全体を見て、正確な見取り図を描かなければあかぬ。
そしてこれをするためには現実の世界に生きて経験を積み、見聞きした物事、思ったこと感じたことを正確に表す言葉を習得する必要がある。これができるようになった者を大人と云い、これが未だできていない者を子供と云う。
というのは年齢には関係がなくて、六十になっても子供のままで、部分と感覚の世界のみに生きる人もあれば十三かそれくらいで全体を識って精確な見取り図を描く者もある。
なので持続可能な社会を建設してより良く生きていくためには私たちは大人の視点、視座を身につける必要があると思うのであるが、しかーし。
尾崎世界観氏の『母影』を読んでそうでもないのかも知れぬ、と思うようになった。というのは、この小説は子供の視点で描かれているため、世界は部分的にしか把握できておらず、しかもその捉え方は極めて感覚的で、大人がするように見聞きしたことを全体の中に位置づけることはない。
ところがこの小説を読むと、その全体というものが果たして、本当の意味で、全体、なのか。というか、それ以前に大人の視力は平均的であるだけで、もしかして物事が歪んで見えているのではないか、という気がしてくる。
その歪みとはなにかというと例えば、大人が此の世の出来事を見るときには必ず善悪というフィルターがかかる。
この小説で言うと、母親が、「変なこと」をしている、ということは道徳的に非難されることで、自動的に悪として位置づけられるが、語り手の子供からすれば、それは単に、「変なこと」に過ぎず、悪ではない。
その、部分的で感覚的な見方は、靴や乗車券、と言った物、日没や雨や風といった自然現象、人物にも及ぶ。
ただし、これだけが「変」と認識され、他の事と区別されるのは、周囲の自分に対する反応が変化する、というのは例えば学校で差別迫害される、母親の様子が変わる、といったことを同時か、または予見的に察知するからである。
同時というのは、そのことと周囲の反応が同時に起こって、変、と思うことで、予見的というのは、そのことによって、周囲の反応がある前から、これって変なことかも知らん、と思っていたら思った通りの反応が周囲からあって、やはり変だった、と思うようなことである。
作者はこうしたことを丹念にひとつびとつ描いて、小説を読むとき誰もが手にしているはずの見取り図を敢えて用いない。それは、純粋無垢な子供と不純で汚れた大人というありきたりな図を描くのではなく、作者が一般的な見取り図の歪みに馴染めない感覚を有して、それとはまた別の見取り図を拵えたい、世界を見るとき、このように見たい、と願っているからであると私には思える。
したがってここで描かれるのは当然、無垢な子供ではなく、作者が巧んで拵えた、此の世をもうひとつの眼で見るための子供である。
ここで作者は、意識せる狂人、というが如くに、意識せる近視、意識せる遠視に態(わざ)となって、それを自らの語彙で矯正、つまり或る種の遠近両眼鏡をかけているように思える。
影であった母が言葉として実体化して子と重なり、それから以降、母影となる過程と結末、エンディングの残響が遠く響く、この女の子供の将来をもまた作者は見て居るようにも思える。