書評
2021年6月号掲載
トマス・ピンチョン『ブリーディング・エッジ』(トマス・ピンチョン全小説)刊行記念書評特集
複雑な物語、8K的描写、長い!……けど面白い!
世界的巨匠にして謎の作家トマス・ピンチョンが、9・11同時多発テロが起こった2001年のニューヨークを描いた超話題作について、ピンチョン・ファンのお二人にご寄稿いただきました。
対象書籍名:『ブリーディング・エッジ』(トマス・ピンチョン全小説)
対象著者:トマス・ピンチョン/佐藤良明・栩木玲子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-537214-9
『ブリーディング・エッジ』はピンチョンが76歳の時に発表された作品です。
76歳といえば縁側で日向ぼっこするおじいさん、庭に来る小鳥を愛でたり、かんたんスマホで撮った寒椿の写真を孫に見せて微妙な反応をされたり......と、いわゆる「静」のイメージを想像してしまうものですが、『ブリーディング・エッジ』は前記のようなイメージの年齢の方が書いた物とは思えないようなパワフルさに溢れています。
9・11アメリカ同時多発テロを巡る陰謀の物語を中心として、アメリカ南米支配の闇、ドットコム・バブルの崩壊、アラブとアメリカ企業の怪しい繋がりなど、あまりにも多くの社会、歴史的諸要素がそこに絡み、謎が謎を呼び続けて複雑化し続ける物語。
その物語を彩る登場人物も、過多で個性もドギツい。ロシアンラップに傾倒するコンビのIT産業テロリスト、ナードコア・バンドのボーカルを務める、ジェニファー・アニストンに憧れるハッカー少女、敏感な鼻で臭気を分析し事件を解決する能力者軍団、インチキ臭いオリエンタル系精神セラピスト、超甘党のおっかないロシアンマフィアの老親分......などなど一見すると同じ物語に納まらないと思える顔ぶればかり。
こうした本筋とは別にアニメ、ロック、映画などカルチャーへの言及まで...頭がクラクラしてきます。もう勘弁してくださいと言うほど振り回されて、改めてその年齢からくるイメージと相反する「動」的なピンチョンのパワフルさに圧倒され、半ば呆れながら(笑)心底作品を楽しみました。
特に作品内で個人的にピンチョンらしさが際立ってるなあという感じで印象に残ったのが、マキシーンが天才ハッカーであるエリックの捜索のためストリップ・クラブに踊り子として潜入するシーンです。
マキシーンの心理の微妙な移り変わりの表現の巧みさ、途中でさりげなく挟まれる、ウエットティッシュでポールを除菌しつつ踊るみたいなギャグ、背後に流れる音楽のセンスの良さ(作品の時代設定からの懐メロのチョイスとして実に絶妙)......。そうした要素が独特(毒特?)の色彩感覚で描かれるこのシーンにはピンチョンの魅力が集約されていると思うんです。まるで映画の上質な長回しのワンシーンを観るような満足感と緊張感を味わいました。
またこのシーンに初登場するエリックの容姿の描写も秀逸です。
彼の飲んでいる20オンスの特大カップ(蛍光ストロー付き)に注がれた赤色のアルコール度数の高すぎる得体の知れないドリンク、約7行を費やして表現される超圏外ファッション(?)に身を包んだ姿の描写から、一瞬でヤッピー的洗練とは無縁のアウトローハッカーである彼の属性が示されます。
ここだけに限らず、ピンチョンは服装を含めた容姿や持ち物から登場人物を一瞬にしてキャラ立ちさせるのが本当に上手いなあと思います。
ギャグや情報量の多さに隠れがちではありますが、解像度の高い全ての箇所にピントが合った映像を脳内に思い浮かばせるような、8K的とも言える細かな描写もピンチョンの魅力のひとつだと思います。でもそのため文章が長くなって読むのに疲れるんだと思いますが......いや! 素晴らしい作家なんです!
だからこそ、ギャグの無いシーンが時々あったりすると、その剥き身になった見事な描写に胸を抉られるような戦慄を覚えさせられるのです。
例えば、9・11直後のニューヨークの街のリアルな姿をルポルタージュのように表現しているシーン。不穏な噂の伝播、人種間の緊張、愛国警察たちの扇動、有事によって浮き彫りにされるアメリカ社会の分断がたった3ページに過不足無く圧縮されています。
先の二つのシーンのようにピンチョン作品の特徴として、普段はギャグに溢れながらも時々真面目な一面がみられるという点がよく指摘されますが、そうした真面目さ、明るさという単純な二面性でピンチョン作品を語るのには違和感もあります。
『ブリーディング・エッジ』の中には、9・11後のニューヨークの場面のようなリアルなルポもある一方、同事件にまつわる根も葉もない噂話、オカルトじみた眉唾な逸話や陰謀論なども同時に描かれます。
ピンチョンの凄いところはそういった真偽性によって情報を分け隔てしないと言うか差別をしていない点だと僕は思っています。
そうした総てを平等に作品内に詰め込んで世界の新たな輪郭を描き出す作家なんじゃないかと思うんです。
とりもなおさずそれは登場人物の多彩さにも反映されていて、善も悪もファシストもリベラリストも総て詰め込んで作品を作る。作品内で人物や事象に対する好悪の評価は見え隠れしますが、実は嫌いなものに対しても描き方はなおざりでなく、誰をも平等にギャグにするし真面目にも描く姿勢を貫いていると思います。カルチャーにしても分け隔てなく取り入れるのも同じ理由からではないでしょうか。
9・11当時のアメリカをピンチョンの知る総てを詰め込んで描いたこの作品......だから長くて......いや、本当に素晴らしい作品です!