書評

2021年9月号掲載

きらめきを永遠に定着させるために

オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』(新潮クレスト・ブックス)

江南亜美子

対象書籍名:『地上で僕らはつかの間きらめく』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:オーシャン・ヴオン/木原善彦訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590173-8

 全編を満たしているのは、喪失の痛みの感覚と、その痛みにすら美を見出す著者の感性である。本作は、著者自身に境遇のよく似たベトナム系移民の語り手が、英語を十分に読むことのできない母親に宛てて手紙を書いているという形式の、自伝的要素をもつ小説ではあるが、ごくプライヴェートな回想録として抒情をたたえると同時に、この社会に対する考察と批評をはらみ、普遍性を獲得している。大事なひとを失う痛みと、私たちもまたこの社会に生きていることの痛みが、ともに読者に共有されるのだ。
 三部構成をもつ本作のうち、第一部はおもに少年期の回想だ。そこには母親からの暴力の断片がいくつも差し込まれる。サイゴンと呼ばれていた都市の郊外で生まれた「僕」はそれから二年後に、母とその母とでアメリカに渡り、東海岸のコネチカット州ハートフォードに移り住む。アメリカで母は、低賃金のネイリストとしてまた工場労働者として長時間労働にいそしむ日々を送るが、その極度の疲労は、幼いときのベトナム戦争の暗い記憶と夫からの暴力のPTSDもともなって、息子への殴打に発露するのだ。
 祖母は戦時下で軍人相手の売春婦をしていたころに、母の父親となる白人のアメリカ人と出会い、家庭を持った。肌の色からほぼ白人と見まがわれる母は、しかし英語ができない。言語の壁は、母をさらに精神的に追いつめていく。
「僕」も家庭内では英語を話さずに育つが、学校でいじめにあい、自己形成の過程で英語での自己表現に軸足を置くと決める。これは彼にとって、家族間だけの圧迫的な親密世界を、ぐっと外に押しひろげる決断でもあったろう。世界は、英語という言語を得たことで輝きを放ち始める。
 他方で、「僕」のもうひとつの大事な自己形成は、自身が性的マイノリティであると自覚し、ゲイとしてのアイデンティティを確立することだった。それはおもに第二部で描かれる。一四歳の夏、非合法な年齢でのたばこ農場での肉体労働がもたらした、〈僕の知る夏をがらりと変え、人が普通の一日を送ることを拒んだとき季節がどこまで深い奥行きを見せるかを教えてくれることになる少年〉、トレヴァーとの出会いである。ベーグルをくれたクラスの男子への感謝と恋情が識別できなかったこれまでとははっきりと違う、欲望そのものに向き合わせてくれたトレヴァーは、二つ年上の白人で、暴力的な父親とトレーラーに暮らし、ヒップホップの50セントの曲に陶酔する薬物中毒者でもあった。
〈僕はそのときまで、白人の子供が人生の中で何かを嫌うことがあるとは思ってもいなかった。僕はその憎悪によって彼を徹底的に知りたいと思った。だってそれが、自分を見てくれる人間に対する礼儀だと僕は思うから〉
 この物語が哀切なのは、「僕」とトレヴァーという民族も文化的背景も異なる少年が、自と他の境を融解させる体験をしながらともに過ごした日々が、明らかにゴージャス(=「きらめき」)な、美しい詩的なイメージによって濃密にとらえられていること、しかしそのゴージャスさがすぐにでも消えてしまいそうなかりそめのものであるとの予兆が、つねに漂っていることにある。現実世界の自分たちが置かれた貧しさ、出口のなさ、被差別、社会階級の容赦のなさを凌駕して、互いに力を与えあった唯一無二の関係は、やがて消える……。
 第三部は、「僕」がニューヨークの大学に進学すべく町を出るその前夜から始まり、いわば作家として名を成すにいたる現在までが描かれる。それは、ゴージャスな輝きの残影、網膜や脳に残った光の刺激を、いかに記憶に定着させるかの試みのようにも見える。言葉にして書きつけることが、あのかりそめの輝きを保存する唯一の方法であるかのように、ときどきの思念や日常の風景やディテールを繊細に描いていく。「僕」はベトナム語で、恋しく思う、と、覚えている、が同じ単語であることをいぶかしみつつ、こういう。〈僕はあなたのことを覚えている。そしてそれ以上に恋しく思う〉。この「覚えている」のなかには、母親から暴力以上に享受した愛情、祖母への愛着も含まれる。
 本書には、虐げられた者の代弁がある。自由と偉大さを掲げるアメリカという大国の、影の部分が歴然とある。しかしそれ以上にメッセージを放つのは、生きてここにいることへの喜びだろう。〈結局、僕らがこの世で生きるのは一度きり〉。オーシャン・ヴオンという若き作家が本書で描いたのは、あらゆる人間存在の、生の肯定である。

 (えなみ・あみこ 書評家)

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