書評

2022年3月号掲載

小さな「私」たちから祈りをこめて

伊藤朱里『ピンク色なんかこわくない』

児玉雨子

対象書籍名:『ピンク色なんかこわくない』
対象著者:伊藤朱里
対象書籍ISBN:978-4-10-354411-1

 本書を読む前からつねづね私は思っていた。「姉妹」には、その現実の前にあらゆる物語が先立ってしまっているようだ、と。彼女たちの関係は、家族としての規範や、戦前は「エス」と呼ばれた女学生どうしの同性愛(sisterの頭文字から取られている)の解放区として、近頃は同性どうしの連帯として、血縁さえ超えて描かれてきた。姉妹はこのように愛や結束の喩えとして用いられるが、裏を返すと、それは彼女たちにただの「私」でいることを許さない桎梏(しっこく)とも呼べる。
 本書にはある四姉妹――もう「四姉妹」という響きだけで、先行作品をいくつか連想してしまう読者も少なくないだろう――を軸とした五編の物語が収録されている。美しく生まれて求められる女性像を演じ続ける長女、学歴や痩身で自由を手に入れた次女、社会に馴染めずなかなか自立できない三女、三人とうんと年の離れた四女、今や悪しきものとして扱われる古い女性・母親観だが、当時はそれに身を押し込めるしか選択肢のなかった母親……読者は誰かしらに自分を投影するだろう。しかもそれは誰か一人に限らず、全員に、かもしれない。
 美化された家族愛や、昼ドラ的な身内の確執を描くことはしない。また女性を取り巻く問題や偏見が多くフォーカスされているのだが、何より、それらを受け取る時に生じるジェネレーションギャップこそ、本書の特徴のひとつだろう。近年は母娘の関係をはじめジェンダー問題を表現する作品が小説・漫画・音楽と形態問わず堰を切ったように発表されているが、母娘の間に流れるこまやかな歳月が四姉妹の関係の中に省略されずに書き残されることで、女性が直面する世界像の解像度がぐっと上がっている。
 姉妹達の語りに頷きながらも、私は特に四女に強く共振していた(「共感」ではなく「共振」なのは、彼女と同位相の感情が、本書と私の間で入出力のループが起こってしまったかのように増強され、途中何度か読むのを中断したからだ)。表題作の主人公である彼女は長女と次女の古着を押しつけられ、三女のように不器用に生きる余裕すらなく、強く憤っている。「好き勝手に生きて、やりたいようにやって。姉たちは、いつだって面倒なことをあたしに押しつけてきた。そして自分たちだけが、自分で選んだ新鮮な人生を楽しんでいる」と思案したり、その押しつけられた面倒から「また、あたしが選ばされる」と辟易したり、「好きなものくらい自分で選びたい。お姉ちゃんたちの後始末で一生終わりたくないの」と叫んだりする彼女にあえて大きな主語を見出そうとすれば、私はいくらでも挙げられる。たとえば、女性。たとえば、社会保険料などのツケを払わされるミレニアル世代。たとえば、さぞ真新しく正しい思想を持っているだろうと期待されるZ世代。たとえば、先進国のゴミ処理場と化した最貧国……。かつては、そこに「本当の自分」があると信じて今ここでない場所へ行くことを「自分探し」と表現した。ところが、四女(と、彼女が背負った大きな主語)のそれはパーソナルカラー診断のように、今ここに存在している自分を鏡に映して凝視し、押しつけられ、増えてゆく一方の望んでいない選択肢の中に埋没しそうな自己をすくい出すことを指す。
 やがて彼女も母になるが、息子のナイーヴな発言に動揺しながらも、自分が彼に新たなる「呪い」をかけてしまわないかさまざまに思いあぐねている場面も、私たちがたどる遠くない未来だろう。しかし「でも、わたしは呪いを自分で選び取れる。この子(注 息子のこと)もそうでありますように」と彼女が祈るのは、決して無責任な開き直りではなく、押しつけられる「呪い」は選択し獲得した「自由(リバティ)」と実は一枚のコインの裏表のように不可分であることを示唆しているように読める。誰にでも新たなる呪いを獲得する自由があるのだ。
 ところで、ここまで私はさも当然のように「私たち」と一人称複数を使って、大きなものを登場人物に投影させて読み、そして書いた。しかし小説は小さな主語の語りができる――ただの「私」であることが許された数少ない場でもある、というスタンスも、私は崩すつもりはない。大きなものを語るための装置ではなく、ややもすればそれに翻弄されていると気づけないほど小さな「私」たちの語りだからこそ、ここまで克明に現実が浮き彫りになったのだろう。
 本書のあとに、著者の前作『きみはだれかのどうでもいい人』を拝読した。どちらも「共感」できるほど優しいものじゃなく、共振し中断しながらも読むのをやめられないのは、それが理由なのかもしれない。


 (こだま・あめこ 作詞家/小説家)

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