書評

2022年5月号掲載

男にとって、女の「恋バナ」は永遠の謎である

中野信子・三浦瑠麗『不倫と正義』(新潮新書)

橘玲

対象書籍名:『不倫と正義』(新潮新書)
対象著者:中野信子/三浦瑠麗
対象書籍ISBN:978-4-10-610949-2

 アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した村上春樹原作の映画『ドライブ・マイ・カー』は、愛する妻に先立たれた舞台俳優兼演出家の男が、妻が生前、複数の男と性的関係をもっていたというこころの傷を、無口な女性ドライバーにはじめて打ち明ける物語だ。
 この作品が海外でも高く評価されたのは、国や文化のちがいを超えて、男が個人的なことを語るのが苦手だからだろう。だからこそ、さまざまな小さな出来事が積み重なって、最後の告白に至るまでがドラマになるのだ。
『不倫と正義』では、才女二人が、芸能人の不倫にひとびとがなぜこれほど夢中になり、バッシングするのかを語り合う。この企画は、女同士でなければ成り立たない。いい年をした男が不倫について論じる本を、誰も読みたいとは思わないだろう。
 ここには明らかな性差があり、それは社会的・文化的に構築されたものだろうが、その背景には男と女の生物学的なちがいがあるはずだ。
 これは私だけではないと思うが、男の友人・知人から性愛について相談された経験はほとんどない。数少ない例外も、子どもの親権をめぐってもめているという類の話で、ひととおり事情を聴き、知り合いの弁護士を紹介して用件は終わる。
 それに比べて、若い女性のライター・編集者から、恋愛や結婚について相談を受けたことは数えきれない。私に気の利いたアドバイスができるわけもなく、彼女たちもたいして期待していないだろうが、いつも「そんなふうに考えているのか」という驚きがある。
 女性は私的なことを話題にするハードルが低く、日常的にそのような会話をしているので話が面白い。打ち合わせの時間の大半が彼女の恋愛の話になって、「じゃあ、仕事の件はメールで」となることも珍しくない。
 男にとって、女の「恋バナ」は永遠の謎だ。逆に女にとっては、男はいつもこころを閉ざしているように感じられるのではないだろうか。本書のテーマは不倫だが、そんな女同士の内輪話を覗き込むような面白さがある。
 脳科学者の中野さんは、「(不倫という)人間の自然な感情を、非合理的な社会通念で不必要に縛るのはナンセンスではないだろうか」と冷静に語る。一方、国際政治学者の三浦さんは、「人間の歴史は愛の不可能性を指し示しているが、それを知りつつも愛するという行為は無意味ではないのである」と熱く論じる。その微妙な温度差が、二人の会話に精彩を与えている。
 中野さんが指摘するように、有名人の不倫を夢中になってバッシングするのは、それによって快感を覚えるように進化の過程で脳が「設計」されているからだろう。メディアにとって、「正義」は最大のエンターテインメントなのだ。
 また三浦さんがいうように、リベラルな社会では恋愛は自由意思によって完結しなければならないとされているが、そもそもこの前提は不可能ではないだろうか。自分も相手も完全に「自由」なら、相手が自分の思い通りになるなどという都合のいいことが起きるわけがない。
 過激化する不倫バッシングの背景には、結婚という制度がもはや自分を守ってくれないという不安がある。それと同時に、自由意思が強調されると、「性的同意」の有無が法的な問題になる。恋愛もセックスも結婚も、どんどんややこしくなっているのだ。
 日本も世界も「自分らしく生きたい」という価値観の巨大な潮流のなかにあり、それを私は「リベラル化」と呼んでいる。リベラル化する社会では、男も女もばらばらな個人として「自由に」生きるようになり、それを拘束する制度は捨てられていくだろう。
 本書にも出てくるが、フランスはその最先端で、事実婚で子どもをつくり、愛が冷めたと思えば同居を解消し、連れ子のいる男女が再婚したり、再々婚したりするのが当たり前になっているらしい。リベラル化の潮流は不可逆なので、日本も10年後、20年後には、結婚制度も戸籍制度もなくなっている(有名無実になっている)かもしれない。
 #MeToo運動以来、一部では「毒々しい男らしさ(トキシック・マスキュリニティ)」が諸悪の根源とされ、男性異性愛者は肩身の狭い思いをしている。幸いなことに中野さんも三浦さんも、男性性を「悪」とするような極端な立場からは距離を置いているので、男の読者でも安心して読める。
 とはいえしばしば、背筋が冷たくなるような言葉が出てくるのであるが。


 (たちばな・あきら 作家)

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