書評

2023年1月号掲載

蒐集という名の自己愛に関する物語

アントワーヌ・ローラン『青いパステル画の男』(新潮クレスト・ブックス)

青柳龍太

対象書籍名:『青いパステル画の男』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:アントワーヌ・ローラン/吉田洋之訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590185-1

 人の正体は奇々怪々にして不可解とも思われているが、案外そうでもないのかもしれない。
 例えば目の前から歩いてくる人を注意深く観察すれば、服装、鞄、靴、さらには歩き方から、その人間の経済状況や、嗜好、性格をある程度分析する事は可能だろう。人間は死ぬまで毎日、様々な選択を迫られながら存在していて、意識的にであろうが、無意識にであろうが、その選択の結果として、今のその人の姿があるのだから。
 この物語は幼い頃に伯父(彼も重度の骨董コレクターという病を患っていた)から「古いものには魂がある」と教わった弁護士ショーモンの骨董を含む蒐集遍歴を軸に進行してゆく。
 骨董コレクションという、個人の選択の集積ほど、ある意味無用で、それゆえにそのコレクターの正体を露わにするものはない。
 幼い頃のショーモンの最初の蒐集品が消しゴムであった事には、思わず微笑してしまった。何故なら、私の知り合いに、今は現代アートのコレクターだが、始まりはまさに消しゴムコレクションだった人間がいるからだ。私自身が骨董という不治の病に冒されている事もあり、私の周りには、他にも、本のコレクター、プリミティブアートのコレクターなど、周囲の人間から見れば奇行としか言いようがない度を越えた執心を持った人間が沢山いる。信じられないかもしれないが、彼らは可能であるのならば、毎日でも、たとえ予算を逸脱したとしても、息を吸い、息を吐くように買い続ける。その情熱と愛着が衰える事は決してない。ショーモンと、妻であり骨董に興味のないシャルロットとの不協和音は、あらゆるコレクターが等しく抱えている切実な問題だろう。
 想像してみて欲しい。あなたにとって必要のない、使い道もない奇妙な、しかも時には法外な値段のモノによって、生活空間が日々侵食されてゆく現実を、その圧迫感を……。作者であるアントワーヌ・ローランも恐らくは間違いなくコレクターである我々の仲間なのだと思う。パリに行けば私も必ず行くオークションハウス「ドゥルオー」での描写など、物欲に血迷った体験がある人間なればこそであり、そこでショーモンがエスティメイトの6倍近い値段で競り落としたのが、自分にソックリな18世紀の肖像画であるという事が非常に象徴的で興味深い。なぜなら、繰り返すが、骨董に限らず、あらゆる蒐集は、つまりは自分自身を探す行為に他ならないのだから。登場人物の一人である医師バレッティの究極の「蒐集品」が、看護師ジャン=ステファンであり、それが「完璧に」バレッティ氏のある秘密をまさに体現していたように。
 自分とソックリな肖像画、つまりはシンデレラにとってのガラスの靴を手に入れたショーモンは、ブルゴーニュへと、さらなる自分探しの旅に出るのだが、ショーモンを含め登場人物に善人がいないという点によって、このおとぎ話は安易なハッピーエンディングに陥る事から救われている。つまりこれは秘密と嘘を抱えるありふれた人間が、己自身の欲望とエゴのままに、自分探しをする物語なのだ。善意などとは無関係の、魂を宿した古い物への愛着という幻に導かれて。
 個人的には、究極の「蒐集品」を見つけたショーモンが、この物語の後に、さらに蒐集を続けたのか、あるいはそれで満足してしまったのかという事も気になった。というのも、実は私自身が、ほんの数ヶ月前に、私にとっての究極の蒐集品を、私自身の不注意から破壊してしまうという大惨事を体験したから。その瞬間は私にとってまさに、私自身の死に等しい出来事だった。その存在のこの世からの永遠の欠落によって果たして私は死んでしまったのだろうか? 答えはNOだ。皮肉にも私は、より強力なモチベーションと共に、コレクターとして復活した。いつの間にかどこか満足し、弛緩してしまっていた自分自身の迂闊さに戦慄しながら。私はまだ生きている。つまりまだ時間がある。もうこれ以上を探し求めなくなった時、この世に対する好奇心を失った時こそ、コレクターとしての私は死ぬのだろうが、そんな退屈な時間は想像が出来ない。いや、それとも私は、ショーモンと同じように「支払うべき幸福の代価」として私にとっての究極の蒐集品を失ったのだろうか? いったいどんな「幸福」と引き換えに……。


 (あおやぎ・りょうた 現代美術家/元骨董店主)

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