書評

2023年1月号掲載

『祝宴』によせて

温又柔『祝宴』

坂本美雨

対象書籍名:『祝宴』
対象著者:温又柔
対象書籍ISBN:978-4-10-354731-0

 ふつう、とはどんな居場所なのだろう。『祝宴』に登場する父親明虎(ミンフー)は、長女瑜瑜(ユユ)がなぜ“ふつう”じゃないのだろうかと苦悩する。娘が日本の学校に馴染めず思い悩み、登校を拒否した時、その決断を誰よりも尊重し理解しようとしてきた。だからこそ、大人になってから打ち明けられた彼女の本当の姿をすんなりと受け入れることのできない自分自身に戸惑う。これまで彼がしてきたように、彼女を信じる自分に懸けることができない。それは、彼が育ってきた環境で当たり前とされてきたこととは違うから。愛していても、価値観が違えば心の奥底からまるごと受け入れることは難しい。

 瑜瑜の育ってきた環境、彼女が抱いてきた「ここに属していない」感覚は、とても身に覚えがあった。台湾人として日本で暮らす彼女がどこかに属す安心感を手放していくしかなかったこと。そのことに共感を覚え、何十年も前の記憶が立ちのぼってきた。個人的な話になるが、幼い頃からあらゆることが周りと違っていた。両親は音楽家で、当時は華やかな世界にいた。小学校に入りたての頃、同級生に「ユーメージンの子供なのになんで公立に来てるの?」と聞かれたことが忘れられない。公立と私立の違いがわからず質問の意味がよく理解できなかったが、“そうか、ここにいるべきじゃないなら、どこにいるべきなんだ?”という漠然とした疑問が残った。幼稚園も保育園も通わず日中はベビーシッターと過ごした。小学校に入ると、当時は珍しいワインレッドのランドセル、少し背が高く、気も強く、目立つ存在として堂々とする、という方法をとるしかなく、先生とばかり喋っていた。週末の公園には家族連れが集っていたが、『うちはそういうんじゃないから』と無表情な心で通り過ぎた。また宗教的な理由で誕生日もクリスマスも祝わず、世の中に当たり前なことの多くが我が家にはなかった。その後九歳でニューヨークに引っ越し「日本から来た女の子」になった。英語は一言も話せないまま現地の小学校生活が始まり、「トイレに行きたいです」と母親に書いてもらったメモを先生に渡した。そうして十代をずっとアメリカで過ごしたが、いわゆるアイデンティティ・クライシスに苦しんだ感覚は薄い。客観的に思い返すと、いつからか、周囲と違っていることを自分のアイデンティティにしたからだと思う。きっと、そうするしかなかった。そのうちちょっと変わった子だからと適度に放っておかれるのが心地よくなり、似た度合いで変わった友達もできてきた。基本的に楽観的でとてもラッキーなパターンかもしれないが、環境が変わっていたことは自分を強くしてくれたし、あらゆる立場を想像する癖をつけてくれたのではないかと思う。

 自分と違っていてわからない時は、まず想像する。わたしたちはこんなに違う。明虎のように仲の良い家族であっても、これほどまでに価値観が違い、正義が違う。それでも、理由がわかれば受け入れたり許せたりすることも多いのではないか。先日、学び始めたばかりの韓国語に「なぜ?」と聞く言葉のパターンが多いと聞いてハッとさせられた。相手がなぜそうしたのか、どうしてそう思うのか……それは、人付き合いが日本よりも生々しく人と人の距離が近い韓国の文化において要(かなめ)となっている気がする。自分とは違った正義であっても、それがどんな文脈で生まれたものであるかを知ることで、相手を理解し受容しようとする姿勢。まず聞く、そして想像する。理解と受容は、愛していれば自動的に生まれるものではないから。

 そして大人になって振り返ると、瑜瑜がそうであったように、私も愛されていた。たくさんのものを知らないうちに親からもらっていたのだ。そして、親と子どもがいる、三世代の真ん中に立った今、アイデンティティなんてものは子どもへの愛には全く関係ないことがよくわかる。自らを証明しなくたって、あなたはあなた。どんなバックグラウンドで、どんな血が流れていようとも。自分もきっとそんなふうに愛されていた、ということが人生の基盤になっていく。たとえそれに気づいたのがとうに大人になった今だとしても。

 現実はそんなに甘くないよ、この世の差別はまだまだ終わらない、それによってあらゆるチャンスが閉ざされ、世の中は不公平だらけじゃないか、と睨む自分が向こう側にいる。それでも、それでも、言い切りたい。ふつうじゃない私たち一人ひとりが誰かにとって何者でもない唯一無二であること。それが、この世を照らし続ける。


 (さかもと・みう ミュージシャン)

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