書評
2023年10月号掲載
生命の誕生を支える医師たち
藤ノ木優『あしたの名医―伊豆中周産期センター―』
対象書籍名:『あしたの名医―伊豆中周産期センター―』(新潮文庫)
対象著者:藤ノ木優
対象書籍ISBN:978-4-10-104651-8
息子を産んだ日は雪が降っていた。
お産には潮の満ち引きや月の満ち欠けが関係する、とよく言われるが、気圧も関係あるのかも、と思ったのは、息子と同じ日に生まれた新生児が、他に5人もいたからだ。
無痛分娩を選択できる産科があることで、地域では人気の総合病院だったとはいえ、同じ日に同じ場所で6つの命が誕生するとは! と生命の不思議にしみじみとしたことを今でも覚えている。だが、それは出産した身の感慨であり、その命の誕生に向き合う医師たちにとっては、6人もの出産は全く別の意味合いを持っていたのだな、と本書を読んで初めて知った。そして、改めて、母子ともに無事に出産を終えられたことを感謝したい、と思った。
本書の主人公は、「1年で戻すから」という期限付きで、天渓大学医学部附属伊豆中央病院(通称「伊豆中(なか)」)に異動を命じられた、大学医局員・北条衛(ほうじょう・まもる)だ。「伊豆中」は総合周産期母子医療センターを有しており、業務のほとんどを産科関連が占めている、産科救急特化型の施設だ。ようやく婦人科の腹腔鏡
(ふくくうきょう)手術の術者を任されるようになり、その道のエキスパートを目指していた衛にとって、産科主体の「伊豆中」への異動命令は、思い描く将来からの回り道でもあった。
加えて、わずか半年で「伊豆中」から逃げるように戻って来た6年目の医師・佐伯(さえき)からのさんざんな「伊豆中」評を聞かされていた衛にとって、「でも、飯だけは美味(うま)いぞ」という言葉は、何の慰めにもならず、移動中の電車内ではため息ばかり。センターを率いる三枝(さえぐさ)教授という絶対権力者の存在も、衛の心に重くのしかかる。医師の好き嫌いが激しく、「妊娠出産で職場を空けるから女性医師の異動を三枝が拒絶している」という話もあるのに加え、治療や検査の手順には三枝によって事細かに決められた「教授ルール」なるものが存在するのだという。ルールに異議を唱えようものなら、「烈火の如(ごと)く叱(しか)られる」らしい。
三枝、どんだけ暴君よ? と思いつつ読んでいくと、なんと衛は着任初日で、緊急搬送された妊婦の帝王切開手術に立ち会うことに。執刀医は三枝で、衛は彼の圧倒的な手技の素晴らしさに目を瞠(みは)る。「全ての介助が三手遅い」とダメ出しされながらも、懸命に手を動かす衛に、三枝は「産科はどこまでやれるんだ?」と尋ねる。衛が正直に答えると、さっさと専門分野に進めてしまうため、産科を最低限できる医師が減ってしまっている本院のシステムへの不満を漏らす。思わず「すみません」と謝ってしまった衛に、三枝は言う。「なぜお前が謝るんだ」「産科のひよっこなのも、場違いな施設に突然異動になったのも、別にお前の責任じゃあないだろう」「だったらせいぜい胸を張って、ひよっこらしく仕事をしていろ」。
この、三枝の「なぜお前が謝るんだ」という言葉、本書の終盤にも出てくるのですが、これがね、もう、もう! 詳しくは実際に読んでいただくとして、物語が進んでいくにつれ、三枝がなぜ「ルール」を編み出したのか、そこに至る過程が明かされているので、この言葉になおさらぐっとくるのだ。
衛の上司であり、三枝の片腕で「伊豆中」を実質的に仕切っている部長の城ヶ崎塔子(じょうがさき・とうこ)、衛の先輩医師である下水流明日香(しもつる・あすか)とスキンヘッドの田川(たがわ)、医局では後輩だったが「伊豆中」では先輩にあたるイケメンの神里(かみさと)、塔子を崇める看護師・八重(やえ)、と脇役たちのキャラ立ちも抜群で読ませる。なかでも、伊豆を愛し、地域の人たちを家族のように大事に思っている塔子の過去に関するドラマがいい。彼女のドラマがあることで、「伊豆中」の有り様がさらに意義深いものとなっている。
産科のひよっこだった衛が、何で俺がこんなところに、と嘆いていた衛が、医師としても人としても成長していく様は読んでいて引き込まれる。加えて、本書で描かれる“お産の現場”の圧倒的な臨場感と迫力。第五話の「峠を越えてきた命」では、とりわけその緊迫感が半端なく、胸がばくばくしたほどだ。安全にお産ができるのは、病院のシステムはもちろんのこと、熟達した産科の医師たちがそこにいてこそ、のことなのだ。一つの生命の誕生は、多くの人の手によって支えられているのである。
ヒューマンドラマとしても秀逸な本書だが、伊豆のグルメガイドの側面もまた読みどころ。グルメの大元に伊豆を流れる「水」を据える、というのが心憎い。命の源である水によって、伊豆の豊かさがあるのだ。
作者の藤ノ木さんは、現役の産婦人科医だ。2020年第2回「日本おいしい小説大賞」の最終候補に残った作品を加筆修正した『まぎわのごはん』でデビュー。本作は4作めにあたる。本業と兼業だとお忙しいとは思うが、「伊豆中」での衛の日々の続きを読みたい、と願うのは私だけではないはずだ。
(よしだ・のぶこ 文芸評論家)