対談・鼎談

2023年11月号掲載

『君が手にするはずだった黄金について』刊行記念対談

才能なんて、ないほうがいい

小川哲 × カズレーザー

主人公は、〈小川哲〉!?
虚実のあわいで、カズレーザー氏の目に映ったのは――

対象書籍名:『君が手にするはずだった黄金について』
対象著者:小川哲
対象書籍ISBN:978-4-10-355311-3

カズ 最新作『君が手にするはずだった黄金について』(以下『黄金』)は、小説家〈小川哲〉が主人公の私小説風連作短篇集ということですが、個人的には「三月十日」が特にお気に入りでした。

小川 収録順でいえば二篇目ですが、初出の「小説新潮」には一番初めに掲載されました。2011年、東日本大震災が起こる“前日”の記憶を巡る物語です。

カズ 意外にも、いままで読んだことのない切り口でした。3月10日まで、僕らはごく普通の「なんでもない一日」を過ごしていた。改めてそこに気づかされました。

小川 ずっと書きたかったテーマなので、嬉しいです。エッセイにしようとしたこともあるんですが、途中で「これは小説にするべきだな」と思って短篇として執筆しました。ちなみにカズさんはあの年の3月10日、何をしていたか覚えていらっしゃいますか?

カズ ぼんやりとは。震災が発生したとき、僕は自宅にいたのですが、ネタを書いていたわけでもなく、ぼーっと過ごしていました。そこから逆算すると、前日の3月10日くらいまでライブをしていて、それがひと段落した頃だったと思うんです。

小川 当時はよくライブに出ていらしたんですか?

カズ はい。新宿あたりのライブハウスでネタをやることが多かったです。たいして仕事もなく、バイトも全然してなかったから、少なくとも生活圏の新宿界隈からは出ていないはずです。

小川 意外とみんな覚えているものなんですよね。

カズ ところで僕、『黄金』を読んでひとこと言いたいことがあるんです。

小川 え、なんでしょう……?

カズ 小川さん、猫舌の人間は信用してもいいんじゃないですか?

小川 あはは。たしかに「プロローグ」で、美梨の父親が主人公に〈何があっても、電話口で怒鳴る人間と、猫舌の人間は信用してはいけない〉と言うシーンがありますけど。

カズ 僕自身が猫舌なもので、後半部分に反論したかったんです。

小川 僕は小さいころ、父親に「猫舌は先天的なものではない。熱い物を飲み食いできるかどうかはテクニックの問題だ」と言われて育ったんです。でも現実で猫舌の人を信用していないわけではありませんよ(笑)。

作家とタレントの“黄金律”

カズ 昨年、ラジオ「週刊! しゃべレーザー」(SBSラジオ)にゲスト出演していただいたとき、『地図と拳』(集英社)と『君のクイズ』(朝日新聞出版)はかなり調べものをしたうえで執筆したとおっしゃっていたじゃないですか。

小川 はい。『地図と拳』は満州の架空の都市を描いた物語ですが、僕はもともと理系で、日本史も世界史もしっかりとは勉強してこなかったので、かなり資料を読み込みました。『君のクイズ』も、クイズについては門外漢なので、知り合いのクイズプレイヤーに取材をしたりしましたね。

カズ 『黄金』もフィクションという点では同じで、必ずしも現実で体験した出来事がモチーフになっているわけではないとはいえ、主人公が小川さんと同姓同名の小説家。ご自身と重なるところも少なからずあると思うんです。そうすると執筆の進め方も、過去の二作とはちょっと違ったんじゃないですか?

小川 自分の内側から湧いてくるものを中心に創作している感覚はありましたけど、調べて書いた部分も多いですよ。「小説家の鏡」に登場するオーラ占い師のことや、表題作「君が手にするはずだった黄金について」に出てくるポンジ・スキーム詐欺のことは、当時ほとんど何も知りませんでしたから。

カズ 占いとか、実際に行ってみたりもしたんですか?

小川 今作に関しては、あまり「どこまでが本当でどこからが嘘か」を言わない方がいいような気がするので……。とりあえず、オーラ占いの世界を調べるのは面白かった、とだけは言っておきましょうか。

カズ 小川さん、占いは信じるタイプですか?

小川 いえ、まったく信じていません。

カズ 僕もです。作中の〈小川〉も占い師や、高校の同級生で金融トレーダーの“ギリ先”こと片桐に否定的ですよね。

小川 そうですね。でも「小説家」である自分自身と彼らをどこかで重ね合わせてもいます。

カズ 〈小説家として生きるということは、ある種の偽物として生きるということではないか〉(「君が手にするはずだった黄金について」より)。誰かを好きになったり、美しい景色を見たり、おいしい料理を食べたり……。日常で出会うかけがえのない奇跡も、「小説」という文章にすると〈偽物の黄金〉に変わってしまう。作家である小川さん自身がこれを書かれたと思うと、とても印象に残りました。

小川 ありがとうございます。

カズ よく聞く話ですけど、作家さんに会って「あの作品のあの部分が好きなんですよ」と伝えると、「ああ、あれは意外と簡単に思いついてさ」って言われることがあるじゃないですか。

小川 はい、こちらとしては「そんなこと書いたっけな」と思ってしまうことも時々あります。

カズ 個人的には面白ければなんでもいいんですけど、「ああ、本人にとっては別に苦労して掘り当てた“黄金”じゃなかったんだ……」とショックを受ける方もいそうですよね。

小川 書く側と読む側、スタンスの違いによって起こりうることですね。書く側からすると、どちらかというと「本当に書きたいこと」や「伝えたいこと」ほど偽物に変わっていってしまうような気がします。書き手自身の感情や体験を「これは面白いぞ」と思って文章にすると、意外と読み取ってもらえなかったり。逆に「これはあまり面白くないかもな」と思って書いたところがすごくウケることもありますね。「本当に書きたいこと」がだんだん「読者にささる書き方」に変わっていくというか。

カズ ああ、テレビも似たようなところがあるかもしれません。本当の自分ではない、「金メッキを貼った姿」のほうが視聴者にはウケたりとか。

小川 本が出たあとのプロモーションも同じですよ。

カズ 著者インタビューを受けたら、「なんでこういう話を書こうと思ったんですか?」というような質問を一〇〇回、二〇〇回とされそうですね。

小川 記事にしてもらうために「こういうことがあったからです」とかわかりやすいエピソードを話すことになるんですけど、それを繰り返していると、場当たり的に話していたはずが、だんだん事実のように思えてきたりします。

カズ 「君が手にするはずだった黄金について」に出てくる「黄金律」、〈自分がしてほしいことを他人にしましょう〉。相手に求められていることをするという意味では、小説家もタレントもこの黄金律に則っている生き物なのかもしれませんね。

“承認欲求”のなれの果て

カズ 『黄金』には青山の占い師(「小説家の鏡」)、金融トレーダーの片桐(「君が手にするはずだった黄金について」)、漫画家のババ(「偽物」)と怪しげな人物が登場しますね。主人公の〈小川〉は彼らと出会うことで、“承認欲求のなれの果て”に触れることになる。

小川 はい。

カズ 「承認欲求」は人間だれしもが持っているものだと思いますが、SNSが普及した近年、特によく聞く言葉ですよね。僕は他人に迷惑さえかけなければ、承認欲求があるに越したことはないと思うんです。

小川 マイナスの意味で使われることも多い言葉ですが、その欲求があること自体は人間として当然のことですもんね。

カズ 「人に認められたい」という気持ちがなにかを頑張る原動力になるのであれば、もちろんそれはいいことじゃないですか。

小川 そうですね。ただ、「承認欲求」は危ない一面を孕んでいるとも思います。例えば本当になんの才能もなくて、努力もできない人間が承認欲求を強く抱いてしまうケース。ただただみんなに「すごい」と言ってもらいたいだけだと、それこそ人をだまして生きていくことになりそうだなと。

カズ SNSが台頭して「承認欲求」という言葉が広く使われるようになったのは、「数字」の力によるところが大きいと思うんです。

小川 明確に大小があるからですか? フォロワー数で「あいつには勝ってる」「あの人には負けてる」みたいな。

カズ はい。でも多くの人が数字の大小を気にするばかりで、「単位」には目を向けていないですよね。

小川 たしかに。

カズ 例えばX(旧ツイッター)で一万の「いいね」がついたら、「一万人に認められた」と勘違いしてしまう。実態は「一万件のいいねがきた」というだけで、同数の人が自分のことを認めてくれたとは限らない。勝手に自分にとって都合のいい単位に当てはめてしまうから、承認欲求に飲み込まれていくのかもしれないなと思います。

小川 「直木賞を受賞する」「M-1グランプリで優勝する」というのも同じかもしれませんね。そこにあるのは「受賞した」「優勝した」という事実であって、それだけが作家や漫才師としての価値を決めるわけではないですもんね。

“黄金”のありか

カズ 表題作「君が手にするはずだった黄金について」では、“黄金”という言葉が“才能”のメタファーとしても使われていますね。

小川 片桐が追い求めたものです。

カズ 彼は主人公〈小川〉や友人たちと自分を比較し、才能に焦がれていますが、僕は現実の人生において、才能のあるなしってあまり関係ないと思うんです。

小川 カズさんほど成功していても、「俺には才能があるな」とは思わないんですか?

カズ 才能がある、才能がないなんて考えてもこなかった気がします。なにかに秀でた人を見て、「すごい。この人には才能があるんだな」と思うことはありますけど、自分に関しては才能があろうがなかろうが、どっちでもいいんですよね。

小川 僕も別に自分に才能があって作家になれたとは思っていません。「生きたいように生きるには専業作家になるしかないな」と思って、いまがあるだけなので。

カズ そう考えると、“才能”ってひとことでは括れないですよね。

小川 はい。例えば「絵の才能」って、必ずしも上手に描く能力を指しているわけではないんですよね。めちゃくちゃ絵が下手で誰にも評価されないとしても、描くこと自体が楽しいと思えるならば、それは一つの才能の形だと思います。

カズ 僕の後輩芸人にも、めちゃくちゃ面白くないヤツっているんですよ(笑)。昔から同じ舞台に立ってきて、全然ウケてるところを見たことがないのに未だに芸人を続けています。そういうヤツこそ、「本当に才能があるんだな」と思うんです。満足のしかたがほかの人とは違うんだろうなと。

小川 有名になりたいとか、たくさんお金を稼ぎたいとか、普通の人がパッと思いつくものとは違うところにモチベーションがあるんですかね。

カズ そうなんでしょうね。「楽しいからやる」「好きだからやる」。本人のなかで目的と行動が密接に繋がっていれば、その時点で才能はあるんですよ。「こういう成功を収めたい」とか「何億円稼ぎたい」とか、現在地から遠すぎるところに目標や目的を据えてしまうから、途中で「才能がない」と感じるのではないでしょうか。

小川 カズさんにとっては、その人が納得のいく人生を送れるか、満足に生きられるかというところに“才能”の基準があるんですね。

カズ はい。ドラマ「VIVANT」(TBSテレビ)が放送されていたころ、後輩たちが集まってあれこれと考察をしていたことがあったんですよ。全然的外れなことを言っているような気がしたんですが、あいつら、すごい幸せそうで。

小川 ははは。

カズ その場にいて、僕もめちゃくちゃ楽しかったんです。あのときのことを考えたら、辞書的な意味での“才能”なんて、ないほうがいいんじゃないかと思います。僕になんらかの才能があって、後輩と集まる時間さえ作れないほど忙しかったとしたら、あの楽しさを味わえなかったんですもん。

小川 きれいごとに聞こえるかもしれないけど、仕事でいい結果を残したり、世間に認められることだけが人生の成功ではないということですよね。

カズ 本当、その通りだと思います。


 (おがわ・さとし)
 (かずれーざー)

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