対談・鼎談
2026年4月号掲載
芥川賞受賞記念特別企画
往復書簡「先生とわたし」【中篇】
若島正 × 畠山丑雄
新芥川賞作家の畠山丑雄さんは「受賞のことば」の冒頭、「小説は昔から「取り違え」を書いてきた。『嵐が丘』に“He’s more myself than I am.”(彼は私以上に私である)とある」と記しています。2月に都内で行われた贈呈式で若島正さんと再会し、「先生は人でなしではないか」と申し上げたことなどを思い出しますが、様々な取り違えもあったようで……好評につき延長決定、師弟間の腹蔵ない言葉の応酬と文学談義です。
対象書籍名:『ロリータ』/『叫び』
対象著者:ウラジーミル・ナボコフ 、若島正 訳 / 畠山丑雄
対象書籍ISBN:978-4-10-210502-3/978-4-10-356751-6
若島正様
先日は芥川賞贈呈式にお越しいただきありがとうございました。会場では娘をお見せできて、とても嬉しかったです。挨拶に伺った際、娘はぐっすり寝ていましたが、きっと先生の謦咳が眠りの中まで響いていたことだと思います。
いつか先生は、自分の娘が生まれた瞬間は猿のようで全くかわいいとは思えなかった、とおっしゃっていて、私はそのことばを聞いた時、先生はほんらい人間に通っているはずの、温かな血潮が通っていない、人でなしなのではないか、と申し上げたのをよく覚えています。しかしいざ妻の出産に立ち会う直前になると、実際問題として赤ん坊というのは生まれた直後は血だらけでしわくちゃなのだから、自分も先生と同じようにかわいいとは思えないのではないか、と不安になりました。あのとき想像力を働かせず、先生の人間性を否定するようなことばを口にしたことを、ひどく恥じ入りもしました。
そうしていざ泣き声が聞こえ、血だらけの赤ん坊の姿を目にしたとき、私は心から、かわいい、と思いました。涙も流しました。同時に、やっぱり先生は人でなしなのだ、と安堵もしました。
などと書いているうちに、先生がある授業でとりあげた、アメリカ文学の短編を思い出しました。といっても私は授業中は小説を読むのが常で、タイトルも作者も覚えていないのですが、確かある夫婦が街中で不要になった赤ん坊を募り、集めた赤ん坊を大きな釜で炒めて、お肌にいい油をつくり、売りさばく。ところがひょんなことで夫婦げんかになり、互いが互いを殺そうともつれあい、二人して釜に落ちてしまう──そんな話だったような気がしますが、こうして筋を起こしてみるとムチャクチャなので、もうちょっと違う話だった気もします。「赤ん坊 油 炒め 釜 短編」のキーワードでGoogle検索したところ圧力IHジャー炊飯器の取扱説明書が出てきました。ちゃんと授業を聞いておけばよかったと反省しています。
いずれにせよ具体的なことは何も覚えていないのですが、先生が話すのを聞いて大いに笑ったことはよく覚えています。先生自身も、とにかく笑える小説なのだと言っていた気がします。
うろ覚えのまま書きますが、先生はこの作者は、人でなしである、とも言い切っていました。しかしともかくも腹は括っている。露悪というのともまた違う。露悪は一つの釈明であり、この作者にはやむにやまれぬ切実さがある。その切実さと腹の括りようが、残酷さの底の抜けた、不思議なあかるさをもたらしている、云々。
先日町田康氏と対談したところ、氏は小説家が小説を書く基本的な態度として「無責任」をあげていました。どういうことかというと、小説というのは大変な目に遭っている人を描写する。ほんらいはそいつを生かすも殺すも作者の胸一つであるのに、それを忘れているかのようにカメラで捉えている。その心が痺れたような感じを、作者は持っているべきである。例えば戦争映画ややくざ映画でも、主人公やその関係者が死ねば皆大騒ぎするが、その背後で景色としてバタバタと死んでいく人間がいる。そこにはある種の焦点と、それを定める作者の手つきがある。そのような景色として死んでいく人間を、小説家もいっぱい殺していく。そういう意味で小説家は人非人である──あまり詳しく書くと「新潮」の5月号(定価一二〇〇円)を買ってもらえなくなるのでこのあたりにしておきますが、そのことばを氏から聞いた時、私は例の圧力IHジャー炊飯器の作者と、先生を思い浮かべました。
私などはまだまだその域までは至らぬ、温かな血潮の通った人間に過ぎませんが、今後も先生の背中を追って精進していきたいと思います。
畠山丑雄
畠山丑雄様
定年退官してからもう十年近くも経っているのに、学生が書いたものに誤りがあれば指摘してしまうという、教師の癖がまだ抜けきれない悲しい性をお許しください。
まず「圧力IHジャー炊飯器」の件ですが、これはアンブローズ・ビアスの「犬の油」(“Oil of Dog”)という短篇です。我が国にも蝦蟇の油というのがありますが、この手のインチキ軟膏は万国共通なんでしょうか。
こんなところで油を売っていないで、本題に行きましょう。「娘が生まれた瞬間は猿のようで全くかわいいとは思えなかった」とわたしが言ったことになっていますが、それは事実誤認です。というか、わたしが同じ文脈でしゃべった二つのことが合成されたものになっていますので、それを説明しておきます。
わたしの最初の子供は、男の子でした。まるでホタルイカみたいやなあ、と思ったのが、初めてその子を見たときの第一印象です。産道を通ってきて、頭がとんがり帽子をかぶったみたいに見えたからです。初めて我が子を目にしたときにしては、妙な感動のなさだなあと思われるかもしれませんが、それまでに小林信彦の『パパは神様じゃない』を愛読していましたので、自然とそういう態度が身についてしまったのかもしれません。まだお読みになっていなければ、まあ騙されたと思って読んでみてください。
それはともかく、「猿のようで全くかわいいとは思えなかった」という部分は、トルストイの『アンナ・カレーニナ』です。ご存知のとおり、『アンナ・カレーニナ』はアンナとヴロンスキー、そしてリョーヴィンとキチイという、二組のカップルをめぐるダブル・プロットになっています。リョーヴィンはすったもんだの挙句、晴れてキチイと結婚し、この大長編が終盤にさしかかったあたりで、キチイの出産場面を迎えます。苦しんで、死にそうだと悲鳴をあげているキチイを目にして、神様、許してください、どうか助けてやってください、とリョーヴィンは祈ります。知識人で無神論者であった彼が、ここで初めて神に祈り、その瞬間だけ神を信じるのです。この小説のクライマックスの一つであり、感動的としか言いようのない場面です。
しかし、トルストイはとんでもなく凄いと思わされるのはその先で、リョーヴィンが初めて我が子を見るところです。産婆が「おかわいい赤ちゃん!」と言うのに対して、彼はこう思います。「リョーヴィンは悲しくなって溜息をついた。この『おかわいい赤ちゃん』は、彼にただ嫌悪と哀れみの情を呼びおこすばかりであった。それは、彼が期待していた感情とは、まったく違ったものであった」(木村浩訳、新潮文庫)。人間は生きる苦しみを背負って生まれてくる。小さな生き物をその苦しみから守ってやるのが父親の役目だとすれば、リョーヴィンが父親になるのはまだまだ先のことだ、とそんなことを読者に想像させてくれます。リョーヴィンの試練は続くのです。
トルストイはここで、リョーヴィンの目を通して、この赤ん坊を「その奇妙な、ぐらぐら揺れながら、産着の襟で頭を半分隠した、赤い生きもの」と描写しています。わたしはどうやら、それを「猿みたい」だと記憶の中で翻訳してしまったらしく、授業や酒席でその話を何度もしたことがあります。今回、この機会に『アンナ・カレーニナ』を読み返してみたら、「猿みたい」という言葉は出てきませんでした。感動のあまりの勇み足だと思し召して、トルストイ先生、どうかお許しください。
若島正
(わかしま・ただし 京都大学名誉教授)
(はたけやま・うしお 作家)




