対談・鼎談

2026年4月号掲載

『叫び』芥川賞受賞記念特別企画

京都の地で育まれたもの

畠山丑雄 × 三宅香帆

『叫び』で第174回芥川賞を受賞した畠山氏。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が大ベストセラーとなり、各メディアに引っ張りだこの三宅氏。京都大学文学部の同窓生でもあるお二人が、自由を満喫した大学時代から、文学の未来まで語りつくします!

対象書籍名:『叫び』/『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』
対象著者:畠山丑雄/三宅香帆
対象書籍ISBN:978-4-10-356751-6/978-4-10-611101-3

京都での大学生活

──お二人はともに京都大学の文学部で学ばれ、入学も一年違いということですが、どのような学生生活を送っていたのでしょうか。

畠山 結局七回生まで大学にいたのですが、三宅さんとは一度もお会いしていませんよね。コミュニティが全然違っていたと思います。僕はサッカー部で、一回生から四回生まで授業にはほとんど出ずにサッカーばかりしていましたし、その後の三年間もどこかに所属するということはなく、自分で小説を読んだり書いたりしていました。

三宅 唯一の共通点は私も大学に七年間いたということですね。学部を四年、大学院、D1まで行きました。

畠山 七年もいると、元取った気がしますよね。本当に楽しい日々で、四年で卒業するなんてもったいないと思っていました。三宅さんはサークルなどには入っていたんですか?

三宅 京都の神社仏閣をまわるサークルと、フリーペーパーを作るサークルに入っていました。前者は週末に集まって、本当に神社仏閣をまわるだけのゆるやかな集まりで、三回生くらいになるとみんな慣れてきて、「今週は銀閣寺か。じゃあ我々三回生は近くの喫茶店でお茶でもして待っていよう」とか、「今週は壬生寺か、久しぶりに行ってみよう」といった雰囲気でした。一通りの神社やお寺をまわれたので、良い経験になりましたね。フリーペーパーを作る方はまた全然違っていて、そこで出会った先輩の影響を受けて批評などを読むようになりました。それが今の仕事につながっている感覚がありますね。

畠山 そこも全然違いますよね。僕は本を読む友達があまりいなかったので、ずっとひとりで読んでいました。

三宅 畠山さんって本当にいろんなジャンルを深く読まれているじゃないですか。例えば海外文学を読もうと思ったのって、どういうきっかけがあったんですか。

畠山 もともと父親がかなりの読書家で、僕が大学に入るときに「何読んだらええかな」って聞いて、最初に渡されたのがレヴィ=ストロース『悲しき熱帯』、ヴァン・デル・ポスト『影の獄にて』、『エリック・ホッファー自伝』の三冊だったんです。

三宅 お父様の趣味が素敵ですね。

畠山 そこから文学にのめり込んで、日本だったら漱石とか鷗外とか、大江、川端、三島みたいに読んでいって、そのまま海外文学も、英文学ならジェーン・オースティン、ディケンズだとか、世界文学全集みたいなところから読み始めたという感じですね。

三宅 私の場合、読書歴を振り返ってみると、京都で過ごした学生時代に、わりと乱雑な読書をしても許される雰囲気があった。それが良かったと思いますね。

畠山 それこそ僕はまわりに読む人がいなかったし、競争意識を持たず、ゆっくり勉強できたのはよかったですね。競争すると、どうしてもニッチな方に行ってしまうじゃないですか。誰も読んでいない本を読むのが一番強いから、最新のものとか、まだ訳されていないものとかを読もうとする。それもすごく大事なんですけど、ものを書くのであれば、基礎体力をつけるために、みなが通るような古典から読んでいく必要があると思います。それはある意味東京と違って、競争がないゆるい空間だったからできたことだと思いますね。

なぜ歴史に向かっていくのか

三宅 今日一番聞いてみたかったことなのですが、畠山さんの小説がいつも歴史の方に向かっていくのはなぜなんでしょうか。

畠山 そもそもエピソードとして興味深いし、小説に使いやすいというのはありますね。その土地のことを調べ上げて、さらに過去へ遡ってみると、メインの歴史にはならなかった小話がいっぱい出てくるんです。そういったものって本当に面白いんですよね。
 それから小説の根源にあるものが歴史にもあると考えていて、僕は「取り違え」みたいな言い方をよくするんですが、小説も歴史も、ある意味三人称というか、ヒズ・ストーリーなんですけど、そのヒズ・ストーリーをマイ・ストーリーと思いこんでしまうというのが肝にあると思っています。読み込んでおもろいなって突っ込んでいくうちに、自分の話だと勘違いしてしまうというか。そのような面白さが歴史にもあると考えているのも理由のひとつかと思います。

三宅 歴史を楽しむことと、小説を楽しむことが、畠山さんの中ではイコールとは言わないまでも、かなり近いことなんですね。

畠山 歴史と小説はもちろん違うものではあるのですが、楽しみようとしては近いと思います。

三宅 いまの歴史のお話ともつながりがあるかと思いますが、『叫び』に限らず、他の作品を読んでいても強く感じるのが、ローカル性という主題です。例えば『叫び』であれば、茨木という土地の歴史とつながることが、ある意味では自己表現にもなり得るみたいな、そういう文脈をすごく感じています。それって抽象的なものが信じられなくなったことの反動なのではないですか。

畠山 ただ僕はこれを手放しに良いものとは思っていません。『叫び』の早野が持っている、「僕がここに来た理由はこれだったんだ」という、自分で見つけたかけがえのないアイデンティティというのは、やっぱり捏造されたものではあるので、すごく危ないとも思うんですよね。陰謀論とほとんど同じであって、それを信じすぎたことで早野自身も破滅に向かってしまうわけです。

役所と「考察的社会」

畠山 少し話がずれるんですけど、僕は役所で働いていて、例えば窓口でなにか紛糾した場合に、「条例でこうなっているので」みたいな対応をすると、「その条例書いたの誰やねん。俺聞いてないぞ。連れてこいや」って言われることがあるんですね。これはまさに三宅さんが『考察する若者たち』でお書きになっていることと繫がると思います。本来は法律って、このテキストとみんなでにらめっこして解釈を引き出しましょうねっていうものだと思うんですけど、そうではなくて、それ書いたやつ、つまり立法者出てこい、そいつと直接話をつけたるわ、という。

三宅 おもしろい。まさに考察的ですね。正解を持っている作者がいる前提というか。

畠山 だから、あまりに考察的な社会になってしまうと、法の支配が成り立たなくなってくると思いますね。世界的にも例えば法の支配よりも、トランプが決めているんだから、彼の話を聞かないといけないみたいな。テキストにりんごは赤いって書いてあっても、オーサーが出てきて、ごめんごめん、実は黄色のつもりで書いててんって言われたら、そっちが正しくなってがらっと色が塗り替えられてしまう世界というか。そういうのって「越後屋おぬしも悪よのう」的なある種のネポティズム(縁故主義)やとも思うし、そういうところで繫がっていると思いましたね。

三宅 トランプの話はまさに私も同じことを感じていました。やっぱり二十世紀って、抽象的なテキストへの信仰があった時代だと思うんです。人間はみんなで決めたルール、テキストを読んで、それを守って自立した市民になって、何か問題が起きたときは言葉で議論するのだ、と考えていた。でも、実は抽象的な思想よりもやっぱり具体的な事例に価値を感じてしまうからこそ、テキスト主義になりすぎた反動として「それ書いたやつ出てこい」と言いたくなる人たちが生まれてくるのだと思います。

畠山 たまに道の駅の野菜とかである「私たちがつくりました」じゃないけど、生産者の顔を想定せずに、テキストだけを享楽的に味わうのって地味なくせに負荷が高すぎて嫌だよねってなってきたと思うんですよね。良い悪いを超えて。『考察する若者たち』は、その時代のあれこれを受け止めていると思いました。

文学が見つけ出す欲望

畠山 『考察する若者たち』の最後には、欲望を見つけ出すことが大事ということが書いてあって、たしかに僕もそう思います。一方で文学としては、頑張って見つけ出した欲望が倫理的に間違っていることもある。きちんと手順を追って見つけた欲望だからこそ見て見ぬふりはできないし、文学っていうのはそういう危なさも含めて書くべきだと思うんですよね。

三宅 私自身の話で言えば、倫理的に間違っているということではありませんが、親の言うことを聞いて地元で就職していたらどうなっていたのかと考えることはよくあります。その方が確かに安全な人生かもしれません。それこそ畠山さんの言葉で言うところの移動しなかった場合の方が、人は安全であることが多い気がします。一方でその欲望を持つこと自体そもそも抑えつけられている人の方が多いのではないか、と私自身は思っていて。なぜなら欲望を見つけてしまったら危ないよ、というメッセージの方が社会では多いからです。

畠山 それはそうだと思いますね。

三宅 それこそ文学の役割みたいな話なのかもしれないですけど、文学が後押ししてくれるものもあれば、もちろんそれで危険な目にあうとか、他人を傷つけてしまうこともある。それでも欲望を持ってしまったんだっていうことも含めて、文学の書くべきもの、読み解くべきものではないかと思ったりもします。

畠山 両方書かないとダメだと思いますね。まず抑圧、という言葉でまとめてしまっていいのかわからないですけど、抑圧された状態にあることを知らしめること。そしてそこから、自分自身の欲望を見つけること。その先にはやっぱり破滅があるかもしれないけれど、小説のいいところは、その破滅に対してジャッジを下さなくていいということですね。あるがままに差し出したらいいということです。これは先日、対談をご一緒した際に町田康さんが仰っていたことでもあるのですが。

三宅 ジャッジする必要がないっていうのは本当にそうかもしれないですね。そこはある意味、批評家と小説家で一番異なるところかもしれません。私は、批評家というのは責任をあえて持つものだと考えています。良い意味で無責任な物語という器に対して、こういう読み方や見方ができると、あえて責任をもって示すのが批評家というか。

畠山 結局ひとつの作品に対して一人だけが評価をするわけじゃないので、複数性が重要だと思います。ひとりひとりの読みは貧しくしかなりようがないですが、それでも安易に社会的なものの見方に逃げずに、きちんと個人的な貧しさを担って持ち寄れば、豊かになり得る可能性がある。みんな違ってみんないいということではないですけど。

三宅 仰る通りで、いろんな読み方があった方がいいと思います。

畠山 書いてる人間としても、もちろん聞かれたら、こういう意図がありますとか答えますけど、やはりそれを裏切るような読みがボンボン出てくると嬉しいなと思いますね。僕も考察だけで終わるのは不満というか、僕がオーサーだから僕が言うたことが正解みたいに思われると困りますし。さっきの立法者出てこいって話に戻ると、普通立法者はもう袖にはけたもんとして、残されたみんなで法というテキストをいじくり回すのが近代以降の共同体の基本だと思うので、書いたやつ出てこいで話が終わってしまうとちょっと辛いと思います。

アフターコロナの世界で

三宅 コロナ禍というのもひとつの大きなターニングポイントだと思っていて、例えば考察的な感覚も、アフターコロナ的な世界観の話だと考えています。

畠山 コロナ禍に関しては、関西にいたこともあって、東京とは少し感覚が違っていました。僕は品行方正にしてましたが、みんな無視して飲みに行ったりしていましたし。在宅勤務組でこっそり旅行いったりとか。そこでだいぶ差はあるなと思いました。東京っていざとなると、国に近いですからね。

三宅 決められた法律で善悪を判断すべきだという感覚は、むしろ思春期にコロナ禍を経験した、若い世代の方が強いのではないかと思います。自分たちより上の世代だと、国家の前に中間共同体の存在感があった気がするんですが、若い世代のほうがすぐに国家の話にいく感じがありますね。

畠山 同時に、法になっていないのに「お前気を使えよ」みたいなのがすごく多かったとも思いますね。法律では別にええねんけど、お前多分病気になるから行かん方がええでっていう、そういうお願いベースみたいな言葉も結構みんな聞くんですよね。お願いで済んだら補償せんでいいので行政としてはすごいラクできてしまう。

三宅 法律はまさにみんなで議論すべき一番のテキスト。畠山さんには役所小説をまた書いてほしいなという気持ちになりますね。役所というか、法学的な世界の見方って案外まだ日本文学では描かれきっていない気がします。

畠山 役所で働いていると毎日がそういう世界なんです。『改元』や『叫び』も役所小説で、一応次も書いているんですが、それが律令をテーマにした作品で、僕の中ではお役所仕事三部作ということで考えています。

〈3月4日、京都大学にて収録〉

(はたけやま・うしお 作家)
(みやけ・かほ 文芸評論家)

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