書評
2024年3月号掲載
一つでも実現していたら、深刻な経営難に陥っていただろう
大澤昭彦『正力ドームvs.NHKタワー―幻の巨大建築抗争史―』(新潮選書)
対象書籍名:『正力ドームvs.NHKタワー―幻の巨大建築抗争史―』(新潮選書)
対象著者:大澤昭彦
対象書籍ISBN:978-4-10-603906-5
能登半島地震と羽田空港航空機事故。2024年はいきなり巨大災害で始まり、テレビやネットは普通の人たちがスマホで撮影した災害・事故現場の動画で溢れた。我々はいつでも、どこでも情報を受けたり発信したりできる情報化社会に生きている。
かつて(今も部分的に)情報は活字の形で紙に載って運ばれた。現代、情報のほとんどは電気信号の形で電波に乗って運ばれる。一般的にはこれを情報化と呼ぶ。そして「情報化の歴史とは電波塔の歴史である」と看破したのが本書である。
東洋大学准教授で景観・都市計画・建築を専門にする筆者は、「電波塔の歴史」を探求する。それは当時の「情報」の最先端であったテレビの歴史と一対をなす。
日本におけるテレビの歴史の主人公の一人は、戦前、内務官僚(警視庁警務部長)を経て経営不振の読売新聞を買収し、国務大臣にまでのし上がった正力松太郎だ。戦後、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監された正力は、不起訴になると米国の後押しを受け日本テレビ放送網(日テレ)を立ち上げる。
米国の目的は「テレビを通じて各国民に民主主義を啓蒙することで、共産主義の脅威から守る」ことだった。東西冷戦が激しくなると米国は日本に核開発を推奨するが、原子力委員会の初代委員長として「原発推進」の旗を振ったのも正力だった。
日テレがテレビ放送を始めたのは終戦から8年目の1953年8月。その半年前に公共放送の日本放送協会(NHK)が日本初の放送を始めていた。
電波を飛ばすには高い塔、すなわちタワーが要る。NHKは紀尾井町の高台に178メートルのタワーを建設した。日テレは千代田区二番町に154メートルの鉄塔を建てた。
1953年に日テレのアドバイザーとして来日した米国の専門家は「(ニューヨークはエンパイア・ステイト・ビルの屋上に7局分の送信施設が設置されているが、日本の)都心に二つも塔を建てさせた日本政府の方針は不可解だ」と述べている。
その後もテレビ放送に参入したい企業の数は増え続け、経済合理性や都市景観の観点から「これ以上、電波塔を増やすわけにはいかない」と集約化構想が浮上する。「東京タワー」の誕生である。都心にビルが増え難視聴が問題になったことから、高さはこれまでの電波塔の2倍の333メートル。NHKや民放各社が共同利用することになった。
ところが日テレは東京タワーの利用を拒否する。「すでに持ち家があるのになぜ借家に入らねばならないのか」という正力の主張はもっともらしいが、正力は肝心なことを知らなかった。当時、正力の邸宅は神奈川県の逗子にあった。二番町の電波塔から50キロメートル近く離れており、間に高層ビルが林立している。本来なら難視聴を実感できる場所だが、正力に気を遣った日テレの幹部が正力邸に電波を届けるために特別のアンテナを設置し、技術者を頻繁に派遣して映り具合を調整していたのだ。
いずれにせよ日テレには新たなタワーが必要だった。東京タワーにランドマークの座を奪われた正力は、新宿区東大久保に550メートルの電波塔を建てようとする。その名も「正力タワー」。晩年の正力は何かに取り憑かれたかのように巨大建造物を作ろうとする。在京プロ野球球団が増えたことを理由にした世界初の屋根付き球場「正力ドーム」、果ては多摩丘陵のよみうりランド周辺で計画された4000メートル・タワーの建設。どれも実現には至らなかったが、どれか一つでも実現していたら読売グループは深刻な経営難に陥っていただろう。
巨大建造物に取り憑かれたのは正力だけではない。正力のライバルで「天皇」と呼ばれたNHK会長の前田義徳もその一人だ。
朝日新聞のローマ特派員で日独伊三国同盟をスクープした前田は戦後、NHKの解説委員になり、報道局長、編成局長を経て会長に就任した。その政治力を生かし、ワシントン・ハイツ跡(代々木)の国有地取得でも大きな役割を果たした。前田は代々木の放送センター敷地内に610メートルの電波塔を建てようとした。
二人の競争はますますエスカレートするかに見えたが、1969年、正力が84歳で亡くなったことで呆気なく終わる。日テレは東京タワーに送信機を移し、NHKタワーも技術の進歩によって不要となった。東京の新たなテレビ塔は地デジへ完全移行した翌年の2012年、「東京スカイツリー」の登場を待つことになる。正力ドームは「東京ドーム」に姿を変え、1988年に開場した。
本書には正力ドーム、NHKタワー以外にも、高度経済成長期に計画された数々の巨大建造物の来歴が記されている。本書を片手に「強者どもが夢の跡」を巡るのもまた一興であろう。
(おおにし・やすゆき ジャーナリスト)