書評
2026年4月号掲載
奇跡の保育園
石井光太『少子化に打ち勝った保育園─熊本「やまなみこども園」で起きた奇跡─』
対象書籍名:『少子化に打ち勝った保育園─熊本「やまなみこども園」で起きた奇跡─』
対象著者:石井光太
対象書籍ISBN:978-4-10-305460-3
保育園から電話が来た。心臓がきゅっと縮まる。発熱に伴うお迎えの要請だろうか……。そうでなくて安堵したのも束の間、どうやら私は他の子の靴を誤って持って帰ってしまったようだ。加えて、相手の親御さんは“プライバシーを気にする方”だそうで、私の失態を各保護者宛に配信せざるをえないと伺って落ち込む。なんとか謝罪の手紙をしたためたものの、保護者同士のトラブルには立ち入れないため、保育園としては預からないとのこと。
ろくに確認しないまま、手提げに靴を滑り込ませたのが悪かった。だけど、その理由は、駄々をこねる子どもを不安定に抱えざるをえなかったからだ。こういうとき、急に子どもの“重み”を感じる。この子の全体重を支えるのはこの世に私だけという孤立感が、それをいや増すのだ。本書を読みながら、“孤育て”の背景にあるのは、核家族化した各家庭と保育園との間の「境界が明確」なためだと気づかされた。保育園の先生も、それぞれの保護者も互いに「プライベート領域に踏み込まないという……暗黙のルール」のもと手を差し伸べるのを躊躇している。
だが、家庭と行政との間にも、親とそれ以外との間にも、実は豊かな領域がある。だから、核家族の境界線を曖昧にすることができたなら、互いの子どもを複数の家族が支え合う関係を築けるはずだ。そして、家庭と保育園との境目を自らぼやかして、核家族の外に広がる豊かなコミュニティのハブとなったのが、本書が取り上げる「やまなみこども園」の創業者・山並道枝さんである。戦後、家族の外から差し伸べられるいくつもの手に支えられながら、貧困でも幸福な子ども時代を過ごした彼女は、1976年、1階を園舎、2階を自宅とする「やまなみこども園」を開園した。そして、親が遅くなるときには、園児を2階にあげて、わが子と一緒に夕食を取らせていたというのだから、まさに物理的に家族と園児との垣根を取り払ったのである。
「やまなみが育んでいるものは、個体としての子どもの能力ではなく、不確実性を含むコミュニティの“関係”でしょう」との専門家の言葉に、“やまなみカルチャー”が凝縮されている。そしてこれこそが、2004年以降、66兆円を超える予算が投じられたという、未曾有の少子化対策が置き忘れた視点ではないか。加速度的に充実する子育て支援ではあるが、各世帯の年収を把握して保育料を定めるシステムは、必然的に、家族の区分をより強固にしていく。そういう時代に「遠くの親戚より、近くのやまなみ」という言葉に象徴される真逆のカルチャーは新鮮に映る。
子育ての過程で、親が孤立する瞬間はいくつもある。例えば、進学した先の小学校で子どもが不登校になったとき、交通事故にあったシングルマザーが子どもを残して搬送されるとき、両親の不和のような家庭内のトラブルを抱えるとき──そんなとき、山並道枝さんをはじめとするやまなみの人々は、躊躇なく家庭の中にまで入り込んできてくれる。そうやって、家族と保育園との間に親族を超える確かな信頼関係が生まれる。そして、この関係性が自然と周囲に波及していくのだ。例えば、やまなみと保護者たちの絆が深いからこそ、彼らは行事やバザーなどの園の活動に熱心に関わる。そのうち、自分の子のみならず、他の子たちの成長に目を配るようになっていく。そうやって、やまなみを中心に同心円的に広がっていく文化は、保護者同士でコロナ禍に子どもを預かり合い、同じ敷地内に家を建ててともに子どもを育てる実践までも生みだした。さらに、この垣根を超えて手を差し伸べ合うカルチャーは、熊本地震の際には、園を私設の避難場所として近隣に開放することで、保護者家庭のみならず、地域に向かっても示された。
“個”ではなく“関係性”から出発する発想は、現代の教育における盲点だったのではないか。モンテッソーリのように、その子の尖った能力を早めに見つけて伸ばしていく教育法はよく聞く反面、個と個を結ぶ“関係性”には十分な目配りがなされていないと感じる。例えば、園児に自由にこいのぼりを作らせて、色とりどりの作品から多様性に思いを馳せる教育ならば、想像がつく。ところが、「みんなで作った全員分のこいのぼりを園庭に飾ろうね!」と声をかけて、「全員のこいのぼりが……空を埋め尽くす光景」を「ゴール」に掲げるやまなみ式の着想は、私にとっては目から鱗の転換だった。
いまの子たちは「かけっこ」をしている。どんな走り方でも速くても遅くてもよいとは言われる。ただ、他との比較でその子の個性を際立たせるのなら、周囲は潜在的な競争相手にもなる。一方、やまなみの子どもたちが全員で取り組むのは「パズル」だ。周囲との関係性の中で自己を把握する彼らは、それぞれの凹凸を補い合いながら、一枚の画を作ろうとする。こういう関係構築の土台を持った子たちは強い。目をキラキラさせて今日も冒険に繰り出す子どもたちは、この心の基地がある限り、卒園後も自由に羽ばたいていけるだろう。
ただ、山並道枝さんという大樹の周りに同心円状に作られた“やまなみカルチャー”を、他でも再現できるのか。本書を読みながら悶々とした私は、先日、思い切って「誤って靴を持って帰ってしまってすみませんでした」と、冒頭の親御さんに声をかけてみた。少し話してみると、“プライバシーを気にする”の本意は、遅くに生まれてきた一人っ子を何より心配する姿勢だと知る。そこから、保育園の外でも挨拶を交わすようになる。すると、その子の成長に目が向き、相手のわが子を見る目も和らいでいく。
それは今朝のことだった。傘を差して大荷物と子どもを抱えて道を歩いていると、「何か持ちましょうか?」と、その方に声をかけてもらったのだ。雨の中でも心が晴れていく。“孤育て”と思い込むほどにわが子だけを目で追っていた。本当にすべきことはむしろ逆だった。他の子に関心を向けてみよう。そうすれば、私だけで背負っていた子どもの重みからいつか軽やかに解き放たれているのだろう。
(やまぐち・まゆ 弁護士)




