書評
2026年5月号掲載
私の好きな新潮文庫
身体にひきずられる精神、愛
対象書籍名:『軽薄』/『死の棘』/『性的人間』
対象著者:金原ひとみ/島尾敏雄/大江健三郎
対象書籍ISBN:978-4-10-131334-4/978-4-10-116403-8/978-4-10-112604-3
テレビやゲームを禁止されていた子どもだったので、唯一の娯楽といえば本を読むことでした。学校の図書館では飽き足らず、母にねだって市立、県立図書館に連れて行ってもらっては、1日1冊のペースで読んでいたときもあります。高校生で映画に出会ったことで、その時間は映画館とレンタルショップに置き換わってしまったのですが。そして映画監督になって以降のわたしにとっての読書は、映画づくりに行き詰まった停滞を打開する手段としてどこか期待を寄せてしまうところがあって少し寂しく、それは遅効性のものではあるけれども、だからこそ本が大好きで、ずいぶん助けられています。
「ナミビアの砂漠」という映画をつくった大きなきっかけのひとつに、『軽薄』があります。わたしはこのインモラルな小説が差し出してくれたぶっちぎりの結末を全身全霊で受け取って、主人公のカナという名前を、お守りのように自分の映画の主人公にそのままいただいてしまいました。

29歳のカナは(今のわたしと同い年です)夫と息子と裕福に暮らし、仕事も順調で表面的には充実した毎日を送っていますが、18歳のころ、激しい恋愛の末にストーカー化した元恋人に背中を刺された凄惨な過去があり、大きな傷を抱えています。アメリカから姉一家が帰国したことで19歳になった甥の弘斗と再会しますが、彼の情動に気圧され、小説の冒頭からあっという間に一線を越えてしまいます。カナにとっては生後3日から知っている甥が、「全部俺のせいにすればいい」などと言ってのける危うい青年に育っていたわけですが、彼にも秘密があり、二人は互いの罪と傷を重ね合わせるかのように関係を続けます。
カナのすごいところは、いつかこんな事になるんじゃないかという予感を持っていたことです。きっと世間からは容易く間違っていると断罪されてしまうふたりですが、加害者性と被害者性という二項対立の枠組みでは決して浮かび上がらない、二者の狭間にのみ存在する真実があるのだということに、わたしはこの小説で初めてはっきりと思い至りました。この読書体験が、初の商業映画づくりに怖気付いていたわたしを駆り立てる、あまりに大きなギフトとなったのです。

『死の棘』は、小栗康平監督の映画から出会いました。原作が私小説の極北だと評価されていることを知り手に取ったのは、しばらく経ってからでした。セリフが少なく無機質な良さがある映画と違って、その膨大な文字数にまず圧倒されました。
夫の10年にわたる浮気を、日記を読んでしまったことで知った妻ミホが発狂し、三日三晩寝ずにトシオを尋問する描写から始まるこの小説は、とっくみ合いを繰り返しながら外界から断絶した二人だけの苛烈なループ、まさに終わりなき地獄のような愛情の確認行為を克明に描き出します。ミホを蝕む棘は抜けず、いちど捩れてしまったものを元に戻そうと試みてもそれは不可能であるという絶対の事実にぶち当たっていくのはつらいですが、不思議とふたりが可愛くて仕方がない瞬間が多くおとずれるのも魅力です。
島尾敏雄は、小説を書くために日々日記をつけていたそうで、この『死の棘』で描かれるできごとのほとんどが敏雄の日記をもとにした事実であるというのだから、驚くばかりです。わざとミホの目に留まるように日記を仕込むような男であったとも言われていて、つまり反応を見てネタにするためにけしかけた。そしてミホは本当に壊れてしまった。生きるか死ぬかの極端な小部屋で袋小路に陥りながらも敏雄はどこかで小説のいい題材だとよろこんでいたのではないか。芸術のために他人の人生を滅茶苦茶にするということの如何をここで問うことはしませんが、島尾敏雄のことを考えると正直むかついてはらわたが煮えくりかえる気持ちになることもしばしばです。小説内のトシオが「このざまがやめられない」と言うとき、こんな男がきらいだ、と最大の嫌悪がわきます。夫視点のみでなんと欺瞞に満ちているのだろうと批判することもできますが、それでもわたしは敏雄がミホへの贖罪と愛を証明するかのように執拗に書き連ねたこの文字群を恋愛小説の最高峰だと思っていて、狂おしいほど好きで、それが恥ずかしくもあるのです。

ここまで夢中になりすぎてしまい文量配分がおかしなことになっていますが、『性的人間』で大江健三郎が性愛について、「二人だけの相関関係の個室にとじこもること」だと書いた一文が強烈で、なんだかわたしの好きな小説の根源はぜんぶ、同じことを言っているような気がしてならないのです。
(やまなか・ようこ 映画監督)




