インタビュー
2026年6月号掲載
『モナリザの裏側』刊行記念特集
絵画と物語は似ている。
2025年本屋大賞11位『音のない理髪店』で注目を集めた著者が挑んだ、名画をめぐる短篇集『モナリザの裏側』。本作に込めた想いとは。
対象書籍名:『モナリザの裏側』
対象著者:一色さゆり
対象書籍ISBN:978-4-10-356861-2
──五篇の収録作のうち、どの短篇を最初に書きましたか。
表題作「モナリザの裏側」です。編集者の方からは「美術を題材にした小説を」というリクエストでしたが、私としては、人と人の深みあるドラマを描きたいという思いが強くありました。美術に興味のない人が読んでも共感できて心動かされる、強い普遍性のある作品を書きたいと思ったんです。
執筆した2021年当時はコロナ禍で、人と簡単には会えない状況でした。コロナだけでなく、戦争や環境破壊など、世の中には個人では解決できない問題が溢れています。そのうえ、生きてゆくなかで「取返しのつかない過ち」や「元には戻せない時間」など個人的に抱える問題も沢山あります。父と母の過去を、一枚の絵から娘が知るという「モナリザの裏側」を書くことで、自分にとって切実な、でもどうしようもない問題を受け止めたい、少しでいいから人生に希望を見出したい、という気持ちもありました。
──「オスロで光の種をまく」ではムンク《叫び》《太陽》、「青い馬の瞳」ではフランツ・マルク《青い馬の塔》、「富士山のハンマープライス」ではゴッホ《医師ガシェの肖像》、「千年のあこがれ」ではマネ《スミレの花束をつけたベルト・モリゾ》などが登場します。これらの絵は、どうやって選んだのでしょうか。
歴史上なんらかのインパクトを社会に与えた絵画を探した際、そのうちの何点かは行方不明になっていることを知りました。そこにフィクションにできそうな可能性を感じたんです。たとえば《青い馬の塔》も《医師ガシェの肖像》も今は所在がわかりません。
ただ、はじめから「絶対にこの絵で書きたい」と決めていたというのではなく、書きながらそれぞれの絵と対話して、テーマを固めました。たとえば、ムンクは「光と影」、マルクは「視線」、ゴッホは「価値(お金や真贋)」、モリゾは「女性の表現」、モナリザは「現実と虚構(イリュージョニズム)」と、結果的に美術を語るうえで欠かせないテーマを書くことができました。
──大学受験に失敗した女性や仕事をやめてしまった男性など登場人物たちは、一枚の絵に出会って、自ら抑え込んでいた想いに気づいたり、前に進む勇気をもらいます。一色さんにも、忘れられない絵はありますか?
東京藝大の学生だった頃には古今東西さまざまな美術に触れました。とくに西洋美術、ドイツの祭壇画などを専門的に学びましたが、知識が増えると、良くも悪くも作品との距離が生まれます。そういう意味では、高校生以前の原体験が近いものかもしれません。
たとえば、福田平八郎の《雨》という絵を浪人時代京都国立近代美術館で観て、大きな衝撃を受けました。題名は《雨》なのに瓦屋根しか描かれていないんです。でもよく見ると降りだした雨が瓦に浸みこんでは消える様子が映像的に表現されている。それに気がついた瞬間に、夏の夕立の香りや蒸すような湿度や瓦を眺めている二階の和室がぶわっと立ち現れた。限られた情報で無限の感覚を表している。「めっちゃパンクやん!」と思いました(笑)。《漣》もそうです。多感な頃だったからこそ、大人からかけられるどんな言葉よりも不思議と救われました。
──静岡で財を成した男がゴッホの絵に自らの過去を重ねる「富士山のハンマープライス」では、手に汗握るオークションの場面が描かれます。
アート市場の話になると、オークションは避けては通れないトピックです。私自身も仕事でニューヨークや香港などの主要なオークションハウスに出入りしました。働いていたギャラリーの社長さんの代理で、競りの札を上げに行ったこともあります。結局、競り落とせませんでしたが、アドレナリンがドバドバ出て度胸試しのようでした。
──絵を観るとは、どういうことでしょうか?
難しい質問ですね。私が答えるのはおこがましい気がしています(笑)。なぜなら私の周りには絵描きや制作者が大勢いて、彼らが四六時中、真摯に絵や作品に向きあっているのを目にしているからです。
『モナリザの裏側』を書きながら思ったのは、美術鑑賞は読書によく似ているということでした。最初に読んだときは理解できなくても、何年も経って読むと「そういうことを言っていたのか」と閃くことがある。遠藤周作の『沈黙』や江國香織さんの『こうばしい日々』などは、子どもの頃から何度も読み返していますが、読むたびに発見があります。
『モナリザの裏側』の五篇では、絵を観ることを通して、親子のつながり、夫婦の愛情、人生で本当に大切なことは何なのかといったテーマを書きました。ぜひ面白い物語を探している方に、読んでいただきたいです。
(いっしき・さゆり 作家)



