インタビュー
2026年7月号掲載
桜木紫乃『異常に非ず』特別インタビュー
「地獄」と『異常』 ひと晩で読破した話題作
Netflixのドラマ「地獄に堕ちるわよ」の記念すべき配信初日の夜、メガホンを取った瀧本智行監督が読んでいたのは、桜木紫乃さんの長篇小説『異常に非ず』だったそうです。冷酷非情な大ヒット作を放った監督が「不覚にも泣いた」「大好きなシーンや唸る台詞があった」等々、話題作について熱く語ります。
対象書籍名:『異常に非ず』
対象著者:桜木紫乃
対象書籍ISBN:978-4-10-327727-9
一気読み、シビれました
「地獄に堕ちるわよ」の配信がスタートした4月27日、桜木さんの新刊が出ていると聞き、読まなくてはと書店に行ったら、文字だけのカバーがやたらと目立っていました。買って、その晩のうちに読破。一気読みでした。
僕の師匠は高橋伴明で、三菱銀行立て籠もり事件を「TATTOO〈刺青〉あり」で映画化し、犯人の母を渡辺美佐子さん、元恋人を高橋(当時は「関根」)惠子さんが演じてます。ですから、どうしても同じ事件をモデルにした『異常に非ず』はふたりの女優のイメージで読み進めていました。でも途中から母のカヨは自分の死んだお祖母ちゃんに、元恋人の亜紀は何十年も前につきあって別れた女性の顔がチラつき、いつしかこのふたりになっていた。
映画屋は小説を読むとき、絵を思い浮かべてしまうのですが、この長篇小説にはさらに自分の実人生とシンクロする瞬間があり、自分の知ってる人物と物語にも思えてきた。さすがに犯人の花川みたいに猟銃で四人も殺した男は、まわりにいませんが。花川によって人生をメチャクチャにされた母と元恋人がひとつ屋根の下で一夜をともにして泣くところは、救いを求めあおうとしているとか、かわいそうな者同士の連帯といった説明はできなくもない。しかし言葉にすると何か違っていそうで、言葉を超えて感情が揺さぶられ、ここで不覚にも僕も泣きました。
小説の本筋からはずれるところかもしれませんが、大好きなシーンや「映画だな」と唸る台詞があった。そのひとつは、クラブのホステスの亜紀が1970年の大阪万博景気で羽振りのいい土建屋の社長から愛人にならないかと口説かれるシーン。このようなやりとりを桜木さんはどこで拾ってきたのか知りたくなるくらいリアルでした。社長はその後、仕事で穴をあけて自殺し、失意の亜紀に「しんどくないんか」と声をかけるのは店の黒服だった花川、そして亜紀は「あのひとことで、人生狂ってしもた」と花川との出会いや過去を毎報新聞の近藤に洩らしていく。人の出入りと流れも絶妙で、憎いほどにうまい。
亜紀と近藤は週に一度、ミナミの喫茶店で会う茶飲み友達から、いい仲になりかけるものの、いい仲になれない。法善寺横丁の石畳で亜紀は近藤に別れのつもりの口づけをし、つづく彼女の啖呵は「鬼龍院花子の生涯」や「極妻」の脚本家、高田宏治さんが書いたみたいにパンチが利いてます。
「暗くて狭いとこにおると、そういう気分になるんよ、相手が誰でも。これがうちらのお商売や。騙されたらあかんよ(略)これ以上は金かかるで、っちゅうコマーシャルみたいなもんや。うちらがよう使う手やねん。悪いけどな、うちは毎報の安月給で囲えるもんやないで」(注 瀧本監督はノートに書き出したメモを見ながら、朗読しました)
僕ならこのあと、亜紀はひとりタクシーに乗るとカーラジオから流行歌が流れていて、泣き崩れるというシーンを撮ります。ただ桜木さんの手にかかると、甘くなく、本当に底意地が悪い(笑)。タクシーのなかで亜紀が「これでええ──/これでええんや──」と頭の中で自分をなだめる声が花川の声に変わり、ドヤしつけられる。「お前のお陰でえらい目に遭うた。こん先どんだけかかっても、貸しは返してもらうで。わしは取り立てが仕事なんじゃ。死んでもお前から取り立てたる」。予想外の展開もいかにも桜木さんらしい。これぞ桜木節、シビれました。
怪物と何者か
「地獄に堕ちるわよ」と『異常に非ず』のストーリーや構成が似ているというご指摘は、自分にはわかりませんが、どのようなことに興味を持つかという点で近いかもしれません。ドラマでは細木数子という占い師の怪物が誕生するまでを丹念に追い、怪物になってからは僕はまったく興味がありませんでした。エンタメですから、それなりに入れたつもりですが、ネットでは「いちばん観たいところが描かれてない」と批判を受けています(苦笑)。ただ、その人の本質は何者かになるかまでにあり、怪物になってからは保身や美化によって変質し、それこそ別人格の怪物になっている。
桜木さんも事件そのものはほとんど書いていませんよね。犯人が遺した「オレは精神異常やない。道徳と善悪をわきまえんだけや」という言葉に近藤は引っかかり、海原たちと彼の三十年の生涯を取材し、事件に到るまでを掘り起こしていく。
花川は戦後のベビーブームで大勢の同級生に囲まれ、芋洗いみたいな環境で育ち、三十になるまでに何者かにならなくては、何かデカいことをしなくては埋もれてしまうと焦る。その気持ちは僕には痛いほどわかった。自分がまさに、そうでしたから。自分の場合、何者かになるは映画監督でしたが、二十代でフリーの助監督になったものの、全然、食っていけなくて、二十六で結婚した奥さんには二年後に出ていかれ、三十を過ぎても状況は変わらず、お酒を呑むと誰彼かまわず絡んでた。
あの事件は僕が小六のときに起き、京都に住んでいたから関西キー局の中継をワクワクしながら見ていました。アウトローという存在が辛うじて市民権を持っていた時代で、犯人がアウトローに思え、ハットにサングラス、ジャケットを肩に引っ掛けた、あの有名な写真を見て、かっこいいとさえ思った。こころのどこかで「逃げろ」と祈っていたので、射殺で事件が終わり、虚脱感をおぼえた記憶があります。その後、銀行内で行員を裸にして人間の盾にしたとか、死んだかどうか確認するため、耳を削がせたといった凄惨な話を知って、さすがに思い直しましたが、強烈なインパクトのある事件でした。
「本人なりに、ひと花咲いたと思うたやろ」と近藤は花川の心境を想像します。銀行強盗するつもりが、銀行内に閉じ込められてしまい、籠城するうちに、ここが自分の死に場所であり、皮肉なことに大舞台に思えてくる。状況が勝手に舞台を用意し、最初から、そのつもりであったように追い込まれていく。近藤の見立て、もとい桜木さんの見方が腑に落ちました。
見栄と諦め
記者の海原があの世の花川に問いかけるところもよかった。「大人になるのは、強烈に無様で格好悪いことだった。お前は格好悪さを認めて生きて行くことが、なぜできなかった。なぜ拒絶した」のかと。グッときて、胸を衝かれました。何者かになろうとし、何者かにならなくてもいい、そうやって人は大人になっていく……いま納得して、そう思えるのは大人になったからで、自分も認めることができず、拒んでいた年月が、たしかにありました。
丙午という干支のカヨが、その年に生まれた女性は男を食い殺すという言い伝えを信じているところも考えさせられました。というのも、僕はカヨから六十年後の丙午で、産まれたとき、親は女の子でなくてホッとしたと話していた。
この小説を桜木さんが書こうとしたきっかけは、母の心理を知りたかったからだそうですね。大阪府警が銀行に立て籠もる息子を母に説得させようと香川までヘリを飛ばして迎えに行ったところ、「郵便局で貯金を下ろしてくる」と言って二時間も待たせ、美容室で髪を整えていた。この行為は母の見栄か、そうではないのか。
『異常に非ず』を読んで、僕なりに思ったのは、やはり見栄、それと裏表をなす恥でしょうか。丙午の女性で器量がよくなかったとか、読み書きができなかったとか、見栄と恥の裏表が自分でも手におえないコンプレックスになっていく。うちのお祖母ちゃんにも、そんなところがあって、「わかる!」とわかったつもりになっていました。
もっともカヨと亜紀には人生や世の中に対する諦念というか、諦めと見極めがあったと思うんです。他方、花川には、そういったものはなかった。差別と虐待を受けながら育っていれば、なにくそと思い、諦念なんて持ちようがなかったのかもしれません。圧倒的な存在感と説得力がそれぞれの登場人物たちにあって、とりわけ女性ふたりに惹かれた。だから泣けたのだと、改めてそう思います。
(たきもと・ともゆき 映画監督)



