書評

2026年6月号掲載

豪華キャストでおくる「日本史の青春時代」

河野有理『日本史はいかに物語られてきたか』

與那覇潤

対象書籍名:『日本史はいかに物語られてきたか』(新潮選書)
対象著者:河野有理
対象書籍ISBN:978-4-10-603947-8

 原始、日本史は実に祝祭であった。ぼくたちの真正の生であった。今、日本史はごみである。屑拾いの手で生き、換金されて輝く、祭りの後に散らかされたごみである。
 そんな読後感が思わず口をつく。本編の「トリ」が『青鞜』の系譜を引いて活躍した、ふたりの女性史家(山川菊栄と高群逸枝)のデュオだったからとは限らない。
 今日から戦前に向かって歴史家の系譜を遡る本書の、オープニング・アクトは百田尚樹だ。ベストセラー小説で知られる彼が、なぜ『日本国紀』ではストーリーのある歴史をまるで語れなかったか。その謎解きが出発点になる。
 ひとことで言えば、自国史の焦点となりえる存在が消えたからだ。描かれる歴史のステージに「これ」を上げれば、読者という名の観客が沸き、フェスのコンセプト一色に会場が染まる。そんなスターを、誰も見いだせない。
 かつては「天皇」がその場所にいた。渡部昇一らの保守派だけじゃない。天皇制の廃止を生涯求めた網野善彦のように、乗り越えるためにこそ天皇信仰の源泉を探るなら、自ずと太古から現在まで筋の通る史観が姿を現わした。
 あるいは「風土」という、人格なき名伴奏者もいた。平成前半に「新しい歴史教科書をつくる会」に集った識者でも、西尾幹二がこだわったのはそちらだ。制度化された国のかたちより、縄文以来続く自覚されざる習俗の系譜の方に、日本文明の悠久さを辿りゆくこともできた。
 そのどちらも、もう、ぼくらには実感がない。
 もちろん皇室はいまも人気だが、それは最大の芸能人一家のようにメディアが扱うからで、戦前のように「忠義」を尽くす対象として仰ぎ見る人はまずいない。憲法の第一条にいう「国民統合の象徴」を、幕末の国体論が説いた君臣一体の境地の顕われと同じ意味だと見なす、坂本多加雄の解釈にはやはり無理がある。
 日本に固有の文明のなかで暮らしている、と感じられる日常はとうに消えている。世界で人気のK―POPを、みんなが格安の中華スマホで聞き流す時代に、中韓と比べて日本の特質を誇っても「逆張り」にしかならない。
 そこまで自国史が空回りする国になったのにも、ゆえんはある。二大スターの天皇と風土が、歴史のなかで嚙みあっているのかいないのか、答えがはっきりしないのだ。
 網野善彦は、後醍醐天皇について「非人を動員し、セックスそのものの力を王権強化に用いることを通して、日本の社会の深部に天皇を突き刺した」と記す(本書一〇四頁)。つまり嚙みあわせたという意味だ。だが著者の見るところ、このテーゼは網野が通史を描く際には、活きてこない。
 むしろ網野との鼎談に挑んだ上野千鶴子は、天皇制は一貫して、日本では社会の基層から浮いた存在にすぎないと喝破する。彼女を論壇に誘った山口昌男も、古事記から日本人の国家像を探る吉本隆明のナイーブさを痛罵した。
 そうなる背景はやはり、敗戦による断絶だろう。戦時下で聖徳太子と親鸞の偉大さを論じた家永三郎は、戦後にはそうした思想史上の太線を引けなくなる。祖国が焦土と化す体験の意味を突きつめて、小松左京や上山春平は「日本人」という自らの意識が溶けて消える未来こそ、その伝統を踏まえた歴史の果てかもしれないとの諦観に至る。
 百田や小松のほかにも、松本清張や司馬遼太郎らの作家が、歴史家として学者と対等に論じられる。豪華キャストを揃えた群像劇として描かれる「日本史の思想史」は、客がはけ空っぽになった屋外フェスの会場を思わせる寂しさを湛えつつ、でもどこか懐かしくて、愉しい。
 かつて日本史は、どんな国や社会を望み、そのために自分がどう生きるかと一体だった。だから、歴史学者でなくてもこれだけ口を挟み、泡を飛ばした。マルクス主義はその極点だが、対抗する側も真剣さは同じだ。
 本編で「大トリ」を務めるのは、平泉澄。戦前の皇国史観のドンとされがちな人だが、著者はむしろ遺書のつもりで書かれた、1970年の『少年日本史』に着目する。
 実は平泉と、治安維持法下で投獄や拷問を生きのびた羽仁五郎とは、実証主義を批判し、読み手の精神を揺さぶる物語を求めた点で共通する。全共闘世代にアツく再評価されて甦った羽仁も、死の前年(1982年)に出した『君の心が戦争を起こす』まで、歴史で青少年をアジり続けた。
 名前に覚えのある歴史家たちの、めくるめく共演に幕が下りるとき、ウッドストックのフィルムを見終えたような感慨が走る。もう日本史に、青春を焦がす人などいない。
 だけどその歓声は、ふしぎと心にいつまでも響く。夜の蒼白い月の姿から、光源の太陽を思い出すときのように。

(よなは・じゅん 評論家)

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