書評

2026年8月号掲載

瀬尾まいこ『はじまりのスープ、夏ゼリー』刊行記念特集

優しい出汁のように

瀬尾まいこ『はじまりのスープ、夏ゼリー』

原田ひ香

対象書籍名:『はじまりのスープ、夏ゼリー』
対象著者:瀬尾まいこ
対象書籍ISBN:978-4-10-468604-9

 時には、自分が作ったんじゃないものを食べたい……。
 昔、家事に疲れた母親がよく言っていて、そんなもんかなあ、と子どもの頃は思っていたが、本書を読んでしみじみわかった。
 時には、他の人が書いた料理を読みたい、いや、読みたかったのだ、私は、と。
 私も時々、食についての小説を書いていて、ありがたいことに時には「おいしそう」などというお褒めの言葉をいただくこともあるけれど、自分が書いた料理にはちょっと飽きてしまうこともある。
 そこに瀬尾さんの新鮮な料理が優しい出汁のように流れ込んできたように思えた。
 白菜の漬物味噌汁、あさり出汁を加えた玉ねぎのスープ、焼いた鰺といんげんの胡麻和えがのった出汁茶漬け……どれもわたしの小説には出てこない、考えもつかない料理だ。
 小説家が体験していないことが書けるのかどうか、ということはネットで定期的にバズる話題ではある。そんなこと、数多くのミステリー作家が殺人事件を書いていることだけで結論は出ているのに。
 ただ、こういったちょっとした料理レシピというのはその作家の経験から出てきていることが多いのではないか。フランス料理を作るところを描くなら、ロブションの料理本を開いて参考にするかもしれないけど、こういった、ささっと作ってお腹をみたす料理は書き手の生活や料理のセンスが如実に表れる気がする。瀬尾さんの描く料理はどれも「あ、これ、真似してみたい」と自然と思えて、あっという間に夢中になってしまった。
 主人公リリーは二十六歳、世に言うフリーターというか、きままな働き方というか、ボロ安アパートに住み、さまざまなアルバイトをして生活している。
 この働き方の温度感もとてもよい。さまざまなアルバイトをしている、と聞くと、何か必死に仕事を掛け持ちして、命からがら生きている、という悲惨さがにじみそうだが、リリーはそうではない。まとまったお金があれば平気で仕事を休むし、お金がなくなれば手頃なバイトを探す。彼女には料理の能力があってそれを活用して料理コンテストに出場し、賞金を稼ぐという、コンテストあらしの一面もある。
 ただ、過去に両親が離婚し、その時のある出来事により、心に小さな傷……と言ってしまうとなんだか簡単な言い方になってしまうが、それよりもう少し微妙な、何かもやもやした割り切れない気持ちがある。
 しかし、それがまた、彼女を独り立ちさせている一因になっている。
 そう、「独り立ち」。
 リリーのさわやかで強い空気感はなんだろうと考えた時、その独立独歩の姿勢から来るものだろうと気づいた。決して恵まれているとはいえない環境の中で、力むことなく、自然に一人で生きている。そして、彼女が生きることによって、まわりの人たちも少しずつ変わっていく。
 今、「まわりの人たちも少しずつ変わっていく」とつい書いてしまったし、それは噓ではないのだが、こういう書評などで定型的に書かれる「変わっていく」ではない。
 リリーは決してまわりを変えたい、と思っているわけではない。ただ、ベストを尽くしたいと思っているだけだ。でも皆、何かしら改善されていく。この流れをぜひ、たくさんの人に読んでいただきたい。
 また、主人公が料理コンテストで賞金をもらうことで生活の足しにしているという設定も新鮮だった。
 というのは、私自身が「漬物グランプリ」というコンテストの審査員を長く務めているからである。コンテストには法人の部と個人の部があり、実際、最終審査では応募者自身が現れて漬物のレシピについて発表する場面もある。中には毎年のように出てくれる人もいて、その成長や変化を勝手に楽しみにしていた。当然、彼らの発表の時間はじっとその言葉やしぐさを観察して審査に役立てているつもりだった。
 でも、ニーチェの言葉ではないが「深淵をのぞいている時、深淵もまたこちらをのぞいている」のだ。リリーのように、出場者もこちらを観察している、とは夢にも思わなかった。
 そういう意味でも、この作品は非常に大きな気づきを与えてくれた。

 わたくしごとになるが、最近、年齢を重ね、集中力や視力のせいなのか、なかなか本が読めなくなってきている。量も少ないし、早さもぐんと遅くなった。
 ただ、決してお世辞とかではなく、この作品はめずらしく「あとが気になってしかたない」という感情に突き動かされるようにあっという間に読んでしまった。主人公の気高さ、彼女を囲む人たちの個性、巧みな文章とストーリーが最後まで心を捉えて放さなかった。
 作中のまわりの人たちだけじゃない、私自身も何かが変わったような気がした。

(はらだ・ひか 作家)

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