書評

2026年9月号掲載

「匿流」犯罪の本質に迫る人物造形

黒川博行『流砂』

市田隆

対象書籍名:『流砂』
対象著者:黒川博行
対象書籍ISBN:978-4-10-317403-5

 日本のハードボイルド・犯罪小説の第一人者として活躍している作家・黒川博行さんは作品を構想する時、時々の世相を反映した犯罪についての資料を読み込み、様々な関係者に取材するなど、入念に下調べすることで知られている。「週刊新潮」で一年三カ月にわたり連載された本作『流砂』は、その下調べの成果が見事に結実した犯罪小説の最新作だ。近年、ニュースにならない日はなかったように思えるほど全国で頻発した「匿名・流動型犯罪グループ(匿流)」による強盗、特殊詐欺などの事件の実相を隅々まで描き出している。
「闇バイト」に応募した大阪などのチームで特殊詐欺の「掛け子」「受け子」「出し子」をこなし、強盗の一味にも加わる三十代のホストあがりの男が、主要な登場人物の一人。彼は、闇バイトでよく言われるところの末端で「使い捨て」にされるようなタマではない。不正に得た多額の資金を保管しているチームの「指示役」の居場所を突き止めて拷問し、隠された現金などを強奪。別のチームにも潜り込んで同じことを沈着冷静に繰り返す。東京でこの犯行に手を染めた後は、地元の大阪に舞い戻るが、犯行を隠蔽するには「指示役を殺して死体を始末すればいい」と気がついた。「人間のクズに生きる価値はない」と、冷酷極まる彼に良心の呵責はない。
 この不気味なまでに無慈悲な犯人像に衝撃を覚えた。黒川さんの作品群の中で、匿流によるオレオレ詐欺などを扱った犯罪小説『勁草』(2015年刊行)では、主人公である三十代の男・橋岡に他人への思いやりなど人間味がまだ残っていた。橋岡は、特殊詐欺の標的リストを作る裏稼業「名簿屋」のボスに雇われ、詐欺グループの「受け子」の手配もしていた。橋岡は仲間が賭場で作った借金を穴埋めするためにボスに借財を申し出た際、一緒にいた仲間がボスを暴行の末に殺害してしまうが、橋岡が意図することではなかった。その後、仲間に引きずられて死体遺棄、ボスが貯め込んだ不正資金を奪い取ることに協力する羽目になり、転落の一途をたどる。
 犯罪者として悲哀感が漂う橋岡に比べ、『流砂』の強盗殺人を繰り返す犯人の徹底した反倫理的な振る舞いは対照的だ。それは、個人的な特徴というものではなく、警察の厳しい追及にもかかわらず、新たな犯罪集団が生まれ続け、膨張しているように思える匿流の本質を擬人化させたもののように感じた。
 警察庁によると、2025年に詐欺など不正に資金を得る犯罪で摘発された匿流は一万二千百七十八人に上り、前年より約二千人増えた。SNSによる闇バイトの募集で集められ、特殊詐欺や強盗などの実行役となった者も多く含まれるという。
 これらの者たちは、あからさまに反社会的勢力の暴力団組員になることには抵抗があっても、闇バイトで犯罪に手を染めることはあくまでバイトだからと比較的スムーズに受け入れているように思える。闇バイトの危険性がこれだけ周知されているのに、匿流の摘発人数が増加しているのは、他人のカネを盗んではいけないという基本的なところだけではなく、あらゆる犯罪への抵抗感がない倫理観の欠如が極まっているからだろう。著者が『流砂』の作品世界で生み出した人物については、老いも若きも驚くほど簡単に倫理観を麻痺させた悪徳の人間たちの集まりである匿流の本質を描く狙いがあったのではないかと推察している。
 物語では、大阪府警北淀署の刑事、皆木と迫田のコンビが、次々と行方不明になった男たちが特殊詐欺グループの幹部だった疑いを持って調べ始める。その後、新たな殺人事件も発生したことで、府警捜査一課の刑事たちも加わった大規模な捜査態勢が敷かれた。さらに、特殊詐欺グループの「守り役」だった暴力団幹部・沖らも犯人の追っ手に加わる。犯人を含めたそれぞれの視点がめまぐるしく入れ替わるなかで、著者が得意とする臨場感あふれた追跡劇が展開され、読み出すとページをめくる手が止まらない。
 その先はネタバレになるので詳細を記せないが、本作では、偶発的な出来事が次々に起こり、物語の行方が見通せなくなる。この偶発性は、物語の結末に至るまで予定調和にとどまることなく、フィクションでありながら犯罪現場のリアルを描くことにこだわる著者の仕掛けであろう。
 著者の作品では、2024年に犯罪小説『悪逆』が第五十八回吉川英治文学賞に選ばれたが、本作も犯罪小説の新たな到達点を示したといえそうだ。

(いちだ・たかし 朝日新聞東京社会部記者)

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