書評

2026年8月号掲載

ガラス扉の向こうへ

佐伯一麦『水平と垂直』

青山七恵

対象書籍名:『水平と垂直』
対象著者:佐伯一麦
対象書籍ISBN:978-4-10-381407-8

 十年ほど前から、大学で小説の創作を教えるようになった。書くことを志す若いひとたちのためにすこしでも役に立てれば、という想いはあれど、いまだにうしろめたさが消えない。ただ焦りと恥知らずな根性だけで書きつづけてきた自分が、今日も知ったふうな顔をして学生の小説を褒め、疑問を呈し、励ましてしまっている、そのことのいちいちに、確信が持てない。ゆえに教えを乞うような気持ちで、本書のページを繰りはじめた。が、読むうちに元気づいてきたのは教員ではなく一創作者としての自分で、何より強く思ったのは、こんなふうに言葉と向きあえる若いひとが、心底うらやましい、ということだった。
 仙台在住のベテラン作家、山路さんは大阪の大学の文芸学科でゼミを持ち、創作を教えている。ほとんどの章に、ひとつのテーマをもとにした授業の場面が長く据えられているため、読者は自然、透明な聴講生のように教室の片隅にいすわり授業を見学することになる。作中目を引くのは、個性豊かな学生たちの手による描写文や物語の断片だ。これらはすべて、著者の佐伯さんが実際に大学で行った授業で提出された学生たちの作品とのこと。ギクシャクしていたり、どこか過剰だったり、多少歪なところはあっても、シャベルでならされていない生のままの文章の感触が愛おしい。人物の描写、正体を伏せた音の描写、触感の描写など、準備された課題を前にして、学生たちはけんめいに自分の感覚と言葉を結びつけようと苦心する。寺田寅彦からゴッホまで、さまざまな作家、画家による自画像を紹介しながら、絵のうちに現れる〈私〉の矛盾や不安やリアリティを語る授業では、数々の困難を経てじっと〈私〉と向きあいつづけ、遥かな道を歩んできたこの作家の、貴重な原点がうかがえる。
 大学の創作ゼミを舞台にはしているが、本書は決して小説形式の創作ハウ・ツー本ではない。もちろん、作中には、現役で作品を発表し続けている実作者ならではの、具体的な助言も多々あらわれる。これから何か書きたいと考えているかたにも、書きあぐねて何かヒントを求めているかたにも、本書は実践的な良きガイドとなるだろう。しかし読後に素朴な実感として湧きあがるのは、ひとに書くことを促すのは、心得的なものではなく、絶えまない移動にあるのではないか、という想いだ。つまりこの小説は、山路さんの移動や反復についての話でもある。
 仙台─大阪間の長距離の新幹線移動だけではなく、自宅近くでも、大学内でも、山路さんはたびたび散歩に出かけ、ひとところにじっとしていない。うつろう季節のなかで、植物たちも、鳥たちも、さなぎから羽化する揚羽蝶たちも、永遠にそこに留まることはない。山路さんも妻の菫さんも、過ぎゆく歳月のなかで生じた体の不調と、日々向きあっている。そうして変わりゆく世界を、変わりゆく体で移動していくなか、山路さんは目の前に広がる景色に、積み重なっていく時間を想う。繰り返される移動の軌跡を通して、作中何度も浮かびあがってくるのが、この「水平と垂直」のモチーフだ。水平方向に広がる景色には、そこに生きる人間のまなざしと記憶によって垂直方向に形成された、目に見えない丘陵が横たわっている。何かものを書くということは、現実の地面を踏むと同時にその丘陵に根を下ろし、ちょっとしたでっぱりに足を取られたり、窪みですこし憩ったりしながら、おのおのの記憶の等高線を引いていくような作業なのかもしれない。
 ところで、冒頭、大学に急ぐ山路さんがマンションのガラス扉に激突する場面がある。世界を眺めさせてくれるもの、でもいざというとき動きを阻むもの、当たってはじめて、その強靭さにたじろぐもの。言葉とは、ガラス扉に似たところがあるようだ。もうひとつ外の世界に出ていくためには、つどそのガラスを自らの手でこじ開けるか、破るかしなければならない。でも、この手間を要する開けにくさこそが、言葉の本質であるような気もする。だから、こんなふうに言葉と向きあえるのがうらやましい、とわたしが思ったのは、こんなふうに言葉の書きにくさと向きあえるのがうらやましい、ということでもある。
 教室のなかで、学生たちは〈私〉と世界を隔てる言葉のガラスに手を触れる。つっついたり叩いたり、くすぐったり体当たりしているうちに、破片となった言葉は本人よりもわずかに早く、外の世界に飛び立つ。羽化したばかりの揚羽蝶のように、頼りなくもひそやかな確信をもって、もっと捉えどころがなく、開かれた未知の〈私〉を探しに、言葉はどこまでもゆくだろう。

(あおやま・ななえ 作家)

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