書評

2026年8月号掲載

現代中国を舞台に(再)開発の輻輳的な力関係を描く

仁科斂『丹心/まごころ』

渡邊英理

対象書籍名:『丹心/まごころ』
対象著者:仁科斂
対象書籍ISBN:978-4-10-357141-4

「先生、あなたは幸運ですよ」。学生たちはそう言った。当時、わたしは大学院をでたばかり。大学で日本語文学を教えながら博士論文を書くために天津にやってきた。冒頭の言葉は、来津したばかりのわたしに学生たちがかけた言葉である。
 天津滞在は、2009年の9月から2012年3月まで。北京夏季五輪が終わり、これから上海万博を迎えるという時期だった。内陸の都・北京の海の玄関口として栄えた天津にもオリンピックの(再)開発は及んだ。この数年で天津の街は格段に綺麗になった。住みやすくなった。だから、この時期に天津に来た先生はラッキーである、という訳だ。その後も祝賀型資本主義による(再)開発は、天津の生活と街の姿を少なからず変えた。学生たちは、長期休暇が終わるたびに学食の値段があがることへの不満と皮肉を口にし、古い建物の一角にある個人経営の餃子屋が、気づけば建物ごとなくなっているというようなことは日常茶飯事だった。
 仁科斂「丹心/まごころ」は、それからおよそ十五年ほど後の中国を(再)開発という視座から描きだす優れた現代小説だ。主人公のレンは、大学院で建築学を学んだ。指導教員である鹿野川が、ある日、中国・寧波の美術館設計の仕事を引き受ける。レンは、その下準備のために一足先に寧波に渡る。その仕事は、爛尾楼と呼ばれる、建設途中で放棄された建築物を美術館に変えるというプロジェクトであった。中国では資金難等が理由でこうした建築物が近年増えている。香港の開発会社に籍を置く容姿端麗なQ女士、その父親で紅東市党幹部のQ先生、農村出身の運転手らとともに、レンは仕事を進める。
 天津時代のわたしは、同地の現実に、博論で論じる中上健次の文学を重ねていた。中上は、和歌山県新宮市の自身の生地をモデルとする路地という虚構の空間を創造し、同時に路地が(再)開発される過程を虚構の中で描いた。もとある差別を活用し、同時に新たな差別をつくりだす。それが、中上が示した開発と再開発の姿だ。それは、いま、まさに天津に起こっていた。現代中国は、経済成長と高度消費社会をほぼ同時的に凝縮した形で体験する。中心と周縁、都市と地方、北と南の二元的秩序に依拠する近代的な「開発」と、越境的な資本が先導し、ゆえに中心と周縁、都市と地方、北と南が相互嵌入し、グローバルな位相をはらんで投機的かつ消費的に展開される現代的な「再開発」、この両者も同時的に起こる。中国の経験から思いあたったのが、「開発」と「再開発」の両方を含む(再)開発という複合語だった。
 仁科斂は、中上健次を批評的に拡張する文学的末裔の一人である。デビュー作「さびしさは一個の廃墟」のうちに中上的(再)開発の主題はすでに現れていた。主人公レンとQ女士が共通して登場し、前作の続篇でもある「丹心/まごころ」は、その主題を現代中国を舞台にダイナミックに展開する。「丹心」の現在時は二度目の東京五輪の後、大阪万博直前である。が、コロナ禍の痕跡は、この小説世界にはほぼ見あたらない。つまり、これは一種のパラレルワールドなのだ。この点で本作は、九段理江の『東京都同情塔』──東京五輪で現実には建てられなかったザハ・ハディドの国立競技場が建設された異世界小説──への返歌でもある。仁科は、磯崎新やザハのunbuiltを批評的に変奏する。
 爛尾楼は、中上の路地の裏山・臥龍山とも、路地跡の原っぱとも見える。中上の『地の果て 至上の時』の路地は解体され、ショッピングセンターの建設予定地である路地跡の草むらにはかつての路地の住人や「労務者」たちが野宿している。同様に、爛尾楼は住民たちに占拠され、レンらは住民たちを立退きさせなければならない。Q女士が雇う青幇(ヤクザ)の三人組は、その立退き斡旋のための非合法的な圧力要員である。現代グローバル社会は、開発を推し進める側と、それを押しとどめようとする側との単純な二元論には分けられない。「丹心」は、その輻輳的な力関係を、多言語状況と無数の媒介者たちを通じて活写する。
(再)開発を表象すると同時に、(再)開発に抗する文学的思想的ビジョンを提示する。そうした小説を(再)開発文学と呼ぶならば、「丹心/まごころ」は、卓抜の(再)開発文学だ。読み手は本書から世界に問いをたてることの尽きせぬ歓びを得ることができるだろう。

(わたなべ・えり 文芸批評家)

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