書評
2026年9月号掲載
日本人の「心」の奥底に潜むもの
佐伯啓思『日本人の精神II 「おのずから」の歴史意識』(新潮選書)
対象書籍名:『日本人の精神II 「おのずから」の歴史意識』(新潮選書)
対象著者:佐伯啓思
対象書籍ISBN:978-4-10-603950-8
三部作の二冊目である本書は、「日本的精神とは何か」「日本文化とは何か」というテーマの核心に迫る。
全6章から構成されているが、前半の3章は、飛行機が離陸するための滑走だとすると、後半の3章は機首を上げてぐいぐいと上昇していく緊迫感に満ちている。雲海をこえて行くところに展ける思想の光景に思わず息をのむ。
五月に刊行された一冊目『日本人の精神I 権威と空気の構造』の「はじめに」で、著者は、二十世紀初頭の哲学者オズヴァルト・シュペングラーの、あらゆる文化にはその文化を特徴づける特有の「根源感情」がある、という言葉を引いて、日本人の思考の歴史の底を流れている「根源的価値」を取り出してみたいと記している。
《この「根源的価値」の中心をなすのは、その国の自然観、死生観、歴史観、宇宙観といったもので、より具体的にいえば一種の宗教的な意識だろうと思う。ところが、今日、われわれは、われわれの「根源的価値」というべき自然観、死生観、歴史観などをうまく理解できなくなっているのではなかろうか。その意味で、日本人が背負っている無意識の文化や価値観を探るのが本書の意図なのである》
もちろん、注目しなければならないのは「より具体的にいえば一種の宗教的な意識」という言葉である。
これまでにも確かに「日本人」論や「日本文化」論は多数あった。とりわけ明治維新以降、西洋の文物を急激に取りいれることで近代国家を作った日本人は、そのトラウマから、自分たちは何者なのかという内省を繰り返してきた。文化論、精神論、歴史論など、内外の作者によるすぐれた「日本」・「日本人」論はある。しかし、「一種の宗教的な意識」からのアプローチで貫かれた書は、実はほとんどない。正確にいえば、仏教・儒教・神道・キリスト教という「宗教」論の視点からの論はあるが、著者の意図するものは、個別の宗教論ではなく、日本人の内なる「根源的価値」を生み出している「宗教的」なものとは何か、その解Xなのである。
このXに迫るためには、まず、わが国の歴史の最大といってよい亀裂を見なければならない。前書でも言及されていた太平洋戦争(大東亜戦争)である。とりわけ、日本の「敗戦」である。第1章では、小津安二郎監督の映画「東京物語」によって、戦後の日本人が膨大なる死者の記憶を忘却することで、経済成長と戦後民主主義を手にした過程が描かれる。われわれの「平和と繁栄」が、「死者の魂が帰趨する場所の崩壊と家の解体」を代償としてもたらされたという指摘は、鋭くそして深い。さらに、「東京物語」の父たる周吉の表情のなかに「諦念的随順」を見る著者の眼差しは、そこに「日本文化の底に一貫して流れる精神の形」を、くっきりと浮き彫りにする。
第2章、第3章では、折口信夫と三島由紀夫という国学者と作家の具体名が挙げられ、敗戦後の日本と日本人が、決定的に喪ったものの正体があかされる。
その正体とは何か。ネタばれなどつまらないことは気にしたくないが、ここはやはり読者に直に読んでいただきたい。折口信夫の「神 やぶれたまふ」という悲痛な詩語と、三島由紀夫が衝撃的な自裁を前に、日本人に問うた「文化防衛論」が最終的に意図したものは、敗戦後80年を過ぎた、この令和の現在にこそ、あらためてわれわれに自覚をされなければならないであろう。
ここから後半の4章~6章の扉がひらく。本書のタイトルにもなっている、「おのずから」の歴史意識である。まず日本の歴史意識が、古代ギリシア・ローマ文明とキリスト教によって創造された普遍性としての西洋の歴史観と決定的に違う、「おのずから」という「自然(ジネン)」の観念を底辺にしていることが指摘される。これ自体は、前著でも紹介されたが、『古事記』から抽出した丸山眞男の「つぎつぎになりゆくいきほひ」である。
驚くべきは、この戦後の進歩主義者によって広められた時間(歴史)意識を、著者は本居宣長の「真心」から、さらに古代人の儒教・仏教的観念とは全く違う「神ながらの道」として示す。その瞬間、逆転が起こる。そこに、相対主義の泥沼ではなく、一神教の絶対神による倫理でもない、「無私」という日本人の魂の倫理を浮かびあがらせる。超越者による一切の作為(創造)を超えた自然の世界。
最後の6章では、その「おのずから」の道が、西洋の「運命」といかに似て非なるものかが描きつくされる。このX、すなわち日本と日本人の、われわれの「心」の奥底に潜むものは、論じることはできない。論じれば、「さかしら」となるからだ。描く他はない。その描写力に読者はどこまでも圧倒されるだろう。
(とみおか・こういちろう 文芸評論家)




