書評

2026年9月号掲載

特集 新潮クレスト・ブックスフェア

圧巻の更年期小説

ミランダ・ジュライ『はいつくばって』(新潮クレスト・ブックス)

山内マリコ

対象書籍名:『はいつくばって』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ミランダ・ジュライ、岸本佐知子 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590211-7

 まごうことなき更年期小説である。たとえるならそう、女人禁制の土俵の上にいきなり現れたパンツ一丁の白人女性が、切羽詰まった顔で“更年期”とがっぷり四つに組んでいるうちに、右にとっとっと、左にとっとっと、いつの間にか奇妙なダンスになっていて、そのユニークな美しさに枡席の中年女たちが一斉に立ち上がって拍手喝采を送っているような。そんな、見たことのない景色を見せてくれる圧巻の更年期小説だ。
 語り手の「わたし」は45歳、ミランダ・ジュライ本人を思わせる少しばかり名の知れたアーティスト。世界的ポップスターからコラボを持ちかけられるような成功者(ミーティングは向こうの都合で何度も延期されているけど)で、レコードディレクターの夫と、7歳の子どもあり。俗に言う“すべてを手に入れた”女性だ。しかし家庭生活は完全に行き詰まっている。
 母になったことで夫との対等な関係は崩れ、いまやほとんど冷戦状態。果てしない片付けと料理の日々に摩耗してよく眠れない、灰色の人生を送る。そこで“中年の危機”を打開するため彼女は3週間の旅行を計画、車で一人アメリカを横断してニューヨークへ行こうと出発する。が、30分後にはもう高速をおりてしまう。そしてガソリンスタンドでフロントガラスを拭いてくれた若い男デイヴィーと知り合うと、近場のモーテルに連泊。しかも旅行の予算2万ドルで部屋をゴージャスに改装しだす。仕事を依頼したインテリアコーディネーターはデイヴィーの妻だ。……どゆこと?
 暴走状態に突入した「わたし」は読者を置き去りにしてデイヴィーとの中2的な恋に突き進んでいく。セクシャルではあるものの一線は越えない、いちばん燃える関係に耽溺する。そして3週間が経ち家に戻ったとき、彼女の中年の危機はさらに悪化していて──。
 文章はどれもハッとするほどきらきら光を帯びているのに、すべての音が調子っぱずれというか、調律が絶妙に狂って、ここでしか聴けない音がする。そのすばらしい筆致で、誰のなにをどうオカズにオナニーしたか、くり返し詳細に描写される。「わたし」はこの先、男に相手にされなくなることに怯えまくる性欲おばけだ。
 その激しい性欲の裏には、50代で飛び降り自殺した祖母と伯母の存在がある。おそらく二人とも、これ以上老いることに耐えられなくて死んだのだと「わたし」は思っている。その系譜に自分もいるのだという呪い。崖は目の前まで迫っていて、あと何年かであちら側へ転落するという恐怖。あちら側とは、男から性の対象にされない女たち側。ほかの誰より「わたし」自身が、性的魅力を失った女たちをみじめだと思っているのだ。
 人は、自分が差別していた存在になることが、いちばんこたえる。この場合は年齢差別。けれど年は取る。自分も当事者になる。逃げられない。地獄めぐりの果てに彼女は思いがけない人と交わり、肉体も精神も解放されていくのだが、そこへ至るまでの七転八倒ぶり、嵐のなかでひたすら船を漕ぎつづける体当たりぶりが読みどころだ。
 ひとつ気になったのは“プレゼント”いま・ここという概念。「わたし」はプレゼントであることを良しとし、過去や未来に意識がいくと「いけない、“プレゼント”になるのを忘れていた」と自分を戒めるなど、さりげなくこのキーワードが頻出する。
 この「現在を味わえ」「いま・ここの充実」を重視する姿勢は、ネオリベラル・フェミニズム的なものといわれる。構造的な女性差別に起因する社会問題も、個人の感情のコントロールの問題にすり替えられ、なんでも自己責任で解決しなきゃいけないことにされてしまう。
「同時代の性差別をひらりとかわしてこられたわたしが、母親になってみるといやというほどそれに直面させられた。わたしと彼の中に内在していた目に見えない格差が、親になったことで突然あらわになった。」
 これだけの明瞭なジェンダー意識を持っていても、「わたし」はこの格差と真正面から闘うことはせず、自分自身の更年期との闘いに没入していく。もちろん更年期を真正面から描くこと自体がフェミニズムだし、革新的で、これまで誰も書けなかった女の本音がびっしり書かれた傑作なのだが。それでも、なにかから目を逸らしているように思えた。
「わたし」はどん底にいて、自分のことで手一杯。ねえ、そっちに全振りするのぉー? と声をかけても、「わたし」の耳には届かない。「わたし」はなんともいえない、形容できない独特な踊りを舞いながら、目の前を駆け抜けていった。

(やまうち・まりこ 小説家)

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