書評
2026年9月号掲載
特集 新潮クレスト・ブックスフェア
中年期と女性性をめぐる“移動しない”ロードノヴェル
ミランダ・ジュライ『はいつくばって』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『はいつくばって』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ミランダ・ジュライ、岸本佐知子 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590211-7
ミランダ・ジュライの最新作は長編、そしてテーマはずばり「中年」そして「更年期」だ。
そう来たか! と驚いたものの、思えば彼女の本は出るたびに「そう来たか!」の連続だった。
デビュー作『いちばんここに似合う人』は短編集で、短編小説に与えられる最高の賞フランク・オコナー国際短編賞を受賞した。だが次の『あなたを選んでくれるもの』は意外にもノンフィクション、それも写真つきのルポルタージュだった。そして三作めの『最初の悪い男』は自身初の長編小説。一作ごとにスタイルをがらっと変えてくるのは、それまでの評価に安住しない彼女の創作者としての誠実さであるし、何よりもそのときどきの彼女自身の人生のありようを表現するのに最適の表現方法を選んだ結果でもあるのだろう。
『はいつくばって』の語り手は四十五歳のそこそこ有名なアーティストだ。LAで音楽プロデューサーの夫と七歳の子供と共に暮らしている。ひょんなことから二万ドルの不労所得を手にした彼女は、自己の変革を目指してアメリカ大陸横断ドライブの旅に出発する。ところが自宅から三十分と離れていない何の変哲もない町でなぜか高速を降り、そこで見かけたレンタカー店勤務の若い男に心惹かれてそのままダサいモーテルに泊まってしまう。家族にはニューヨークに向かっていると噓をつきつつずるずると連泊し、しまいには旅行資金の二万ドルをすべて注ぎこんでモーテルの一室を五つ星ホテル顔負けのゴージャスな部屋に改造する。そしてその部屋で件の若い男・デイヴィーと不倫すれすれの危うい恋愛にのめりこむが、刻々と別れの時は近づき……。
と、ここまででやっと話の三分の一だ。このあと語り手である「わたし」(最後まで名前が与えられない)はデイヴィーへの恋心でボロボロになり、仕事も家庭も生活も、手にしていたすべてを失いかけたところに、更年期という人生の荒波が追い打ちをかける。閉経と同時に断崖絶壁のようにガクンと減る性ホルモンのグラフを見て「わたし」は愕然とする。それって自分が女性としての価値を失うっていうことじゃないか。
そこから彼女の長く曲がりくねった魂の遍歴の旅が始まる。はたして彼女は世界と和解し、自分自身を見つけなおすことができるのか。言うなればこれは移動をともなわないロードノヴェル(なにしろ家から三十分だ)、女性性と中年期にまつわるビジョン・クエスト的な物語なのだ(じっさい金の指輪があり、洞窟があり、塔も水晶も迷路もある)。
彼女の作品を訳すのはこれで四作めになるが、今までとはっきり手触りがちがった。もっと生というか、ダイレクトに作者の肉声が響いてくるのだ。じっさい語り手「わたし」と作者には重なる部分が多く、かなりの部分が彼女自身の体験に基づいていると想像できる。あるインタビューでジュライは「“中年の危機”という言葉にもっとポジティブな意味を見いだしたかった、なぜなら危機はいつだって変化を連れてくるものだから」と語っている。そうして大勢の女性たちに話を聞き、その膨大な量のメモ書きと自身の体験をよりあわせてできあがったのが『はいつくばって』なのだという。
本書は発売と同時に大きな反響を呼び、無数の読書会が開かれ、グループチャットで熱い議論が繰り広げられ、それは今も続いている。ことに熱く支持したのは女性読者たちで、「こういう本を誰かが書いてくれるのを待っていた!」という賛辞が数多く寄せられた。それはこの本がただ単に更年期の心身の変化を如実に描きだしたからだけではなく、中年期の女性が直面するさまざまな怒りや悩みやモヤモヤにきちんと名前を与えたからなのだろう。何より「母」「恋人」「妻」といった社会的役割をはぎ取られた後の女性がどう生きるべきか、という大きな問いに、この作品は正面から光を当てたのだ。
最後にタイトルについて。原題はAll Fours、四つんばいの姿勢のことで、あれこれ考えたけれども、けっきょくそのとおりに訳した。作中、「わたし」の親友ジョーディはこんなことを言う。〈四つんばいの姿勢って無防備だって思われがちだけど、じつはいちばん安定した姿勢なの。……はいつくばってると、ちょっとやそっとじゃ倒せないの〉。
(きしもと・さちこ 翻訳家)




