書評

2026年9月号掲載

名著新版刊行!

主語を明け渡さない女たち

宇野千代『色ざんげ』

河合香織

2026年9月28日放送開始 NHK朝ドラ「ブラッサム」で話題!

対象書籍名:『色ざんげ』
対象著者:宇野千代
対象書籍ISBN:978-4-10-102704-3

 人生と小説を、これほど危うく、これほど大胆に接続して生まれた作品は、そう多くない。『色ざんげ』は宇野千代の代表作であり、彼女の小説の中でもっとも知られた作品の一つである。
「私の書いたものの中で、一番面白い」
 宇野は本作をそう評したが、実はその言葉には続きがある。
「と言うのが世評であることも、皮肉ではないかと思う」(『宇野千代全集』第三巻あとがき)
 この「皮肉」という呟きにこそ、表現者宇野千代の逃れ難いごうが潜んでいる。
 そのことは、本作の成立過程をたどることで浮かび上がる。この小説の誕生は、それ自体が一つの事件だった。
 1929年、洋画家の東郷青児が刃物とガスを使った心中未遂事件を起こす。当時、別の新聞連載で心中場面を執筆中だった宇野は、あろうことか「リアリティ」を求めて、傷も癒えぬ東郷に連絡をした。人が心中したとき、そのときのあなたのお気持ちはどんなだったでしょうか、などと聞いたりすることは、「何と言う人を人とも思わぬ、向う見ずなこと」だったと宇野は後に振り返っている。それは仕事熱心というよりも、強烈な好奇心だったと本人は書く。そこには、他者の生と死すらも小説へと引き寄せてしまう、表現者の業があった。
 東郷は電話で話すことは無理だと言い、大森駅前の酒場に来ないかと宇野を呼び出し、彼女を家に招いた。首にはまだ白い包帯が巻かれた状態だった。「こんな蒲団しかないが」と押し入れから東郷が出してきた蒲団には、心中未遂の際の二人の血痕がそこら中について、かちかちに乾いていた。宇野は気味が悪いと思うことなく朝まで眠り、そのまま二人の数年にわたる同棲が始まった。
『色ざんげ』は、その生活のなかで東郷から聞き取った心中未遂事件の話をもとにした小説であり、1933年から1935年にかけて「中央公論」に連載された。
 物語は、東郷をモデルにした洋画家・湯浅譲二の回想として進む。譲二は帰国早々、見知らぬ女性から毎日手紙を受け取るようになる。その女性・高尾は切迫した様子で譲二に近づいてきたかと思えば、突然姿を消す。譲二は高尾の友人である美しい女性つゆ子とともに捜索の旅に出る。譲二はつゆ子に惹かれるが、軍人であるつゆ子の家族の激しい反対に遭う。そこへ、譲二の絵に魅せられたというとも子が現れて、ついには結婚式まで挙げる。忘れてはならないのが、この時点で譲二には妻も子供もいるということだ。
 この小説の面白さは、登場人物たちが恋に注ぐエネルギーの激しさにある。汽車で見かけただけの男に毎日熱烈な手紙を送る女がいる。旅先で出会った女との恋に破れて自死する若い学生がいる。女に会うためだけに嵐の中強羅まで行き、そのせいで他者を土砂崩れに巻き込んでしまう者もいる。
 語り手は男だが、特に際立つのは女たちを描く目だ。宇野は女の嫉妬も、執着も、恋愛の歓びも苦しみも、鋭く切り取る。男の視点から語られているはずなのに、この小説の本当の主役は女たちではないかと、読み進めるうちに思えてくる。
 譲二は情念の嵐の中心にいながら、たいてい受け身であり、状況に流されるだけの虚ろさを抱えている。女が来れば受け入れ、別の美しい女が現れればそちらに惹かれ、駆け落ち、重婚、心中未遂と、事件は次々と起きるが、彼が自分の強い意志で何かを決めた場面はほとんどない。
 対して、彼を翻弄する女たちはどうか。彼女たちは一見、譲二に狂わされているように見える。だが、よく読むと違うのだ。女たちは、むしろ自ら決断し、自分で行動している。失踪も、心中も、愛することも、離れることも、自分の意志として描かれている。物語を動かす力は、むしろ彼女たちの側にある。
 1949年、本書の解説で文芸評論家の河盛好蔵は、この女たちを「いずれも健全な情感の持ち主とは云いがたい」と評しながらも、つゆ子の情熱と純粋さに圧倒され、「作者の魂の一部を分け与えられた女性と考えてよいであろう」と評した。「健全な情感の持ち主とは云いがたい」という指摘には、妻のある男を愛し、狂おしいまでに情熱を剝き出しにする女たちが、当時の社会にどれほど逸脱的に映ったかが表れている。
 だが、発表から九十年余を経た今、私たちが読み直すと、「健全ではない」という言葉だけでは捉えきれないものが見えてくる。彼女たちは、誰よりも自分の感情に誠実だったのだ。世間の視線を気にせず、誰かの顔色を窺わず、自分が決めたことを、自分で引き受けようとしている。それを「健全ではない」と呼んだ言葉の奥には、女が「主語」であることを社会が許容できなかった時代の戸惑いが滲んでいたのではないか。その戸惑いは批評だけではなく、出版の痕跡にも残されている。
『色ざんげ』が連載され、単行本として刊行されたのは、戦前の検閲が行われていた時代である。そのため、連載雑誌にも単行本の初版にも、検閲による削除箇所が存在する。書籍で伏字となっているのは、高尾が譲二を行き先も告げぬままホテルへ連れ込む場面である。譲二が高尾に向かって「あなたのしてることはそれは男のすることですよ」と言い、高尾が「さうよ」と答えて、「今日はそれをあたしがするのよ、こんな場合に男がすることをあたしがするんだわ」と答える場面は残された。しかし、高尾が自ら着物を脱ぐ描写、それを見た譲二の欲望、そして高尾が最後には激しく抵抗する場面は伏字になった。
 この場面は、女が肉体をもった「主語」として立ち上がる瞬間だった。宇野が書こうとしていたのは、概念としての女ではなく、自ら欲望し、拒絶する、血の通った「個」である。その生命力は、伏字となったとしても、完全に塗りつぶすことはできなかった。だからこそ読者は、この小説に生命力と破壊力を感じ取ったのである。戦後、伏字は復元された。そして、消された箇所があったという事実そのものが、今もこの小説の急所を照らし出している。
 では、『色ざんげ』という題は何を意味しているのだろうか。宇野自身は、「『色ざんげ』と言う題名は、いま思うと、あまりに適切ではなかった。この小説の中には、『色』と名のつく淫蕩な世界は全くない」(『悪徳もまた』)と書いている。だが、作者の違和感とは別に、この題名は結果として、作品の核心を奇妙なほど正確に言い当てているのではないか。小説の中で、本当の意味で懺悔している者は一人もいない。男は語ることで自己を免罪しようとしたし、女たちは自らの生を生き切ったことを悔いない。題名は懺悔の不在を逆説的に示す、恋愛を生きることへの烈しい肯定のように読める。宇野は、恋愛を生きる人の姿を、裁かれるべき逸脱としてではなく、生きられた現実として描いてみせた。そして女が主語であることを、疑わなかった。
 だが、宇野はなぜこの成功作を「皮肉」と呼んだのか。東郷は別れの際に、宇野にこう言ったという。
「君は僕から、この作品の筋書きを聞くために、僕と一緒にいたのだね。この作品は、終りの一行まで、僕が話したことばかりだ」(『悪徳もまた』)
 宇野はこの指摘を「或る点では当っている」と認めた上で、しかし自分は作者であり、東郷は作品の中で現れる実在の人物であると書いている。ただし、それは単純な取材者と取材対象者の関係ではなかった。宇野にとっては「聞くことが書く」ことであり、東郷にとってもまた、「話すことによって書く」行為だったという。二人の役割は、不可分な形で作品の中に溶け合っていた。
 それでもというのか、あるいはそれだからというのか。東郷が生涯を添い遂げたのは、宇野ではなかった。『色ざんげ』でつゆ子として描かれた女性と子をもうけ、亡くなるまでの四十数年間共にあった。
 宇野は東郷の浮気相手があの「つゆ子」と聞いて驚き、「ぐしゃっとなった」と『生きて行く私』で吐露している。自分が聞き書きし、自らの手で編み上げた物語が、実は自分ではない別の女への愛を刻む物語でもあったこと。宇野が感じた「皮肉」の一つは、ここにもあったのではないか。しかし、宇野はその失恋のどん底から起き上がった。「その変わり身の素早さは、人の眼にもとまらぬほどであった」と書く。
 東郷と別れてから四十四年後、『色ざんげ』を収めた全集のあとがきで、宇野はこう記している。
「一緒に暮している男の、世にもショッキングな話を小説にしたりした自分のことを、私はいまも考える。またその話を私にしてくれたときの、東郷の気持も考える」
 東郷もまた、宇野との生活を、互いに創作に没頭する者同士の理想的な時間として回想している。足音を忍ばせ、咳払いすらも憚るようにして互いの仕事を妨げまいとした日々。晩年には『色ざんげ』を再読して、「感慨無量でした」とも宇野に伝えている。
 だが、どれほど美しく回想されても、『色ざんげ』の成立には、愛と創作が重なり合ってしまったことの、消しがたい痛みがある。
 愛の現場に居合わせながら、同時にそれを「素材」として冷徹に観察し、記録することは相反する行為でもある。宇野が「皮肉」と呼んだのは、愛を生きることと、書くことの間に横たわる、埋めようもない溝のことだったのかもしれない。それは、幸福であると同時に、創作者の逃れ難い業でもあった。
 そして、その業の中心にはいつも、自分の人生の主語を誰にも渡さないという宇野の生き方があった。そのとき、そのとき、自分の気持ちに正直であることが、彼女にとって自然に生きるということだった。だからこそ彼女は、譲二のまわりで狂おしく動く女たちを、憐れむのでも裁くのでもなく、その生の勢いのままに描くことができたのだろう。
 現在を生きる私たちもまた、「主語」であり続けることは難しい。恋愛で、仕事で、家族の中で、どこかで他者の視線を気にし、誰かの感情に配慮し、気づけば主語を手放し、自分を後回しにしている瞬間がある。『色ざんげ』を読むことは、著名人のかつての数奇な恋愛遍歴を覗き見ることではない。男が語り、主語を明け渡さない女たちが動くこの物語の奥底から、「あなたの人生の主語は、どこにあるのか」と私たちはいまも問われ続けている。

(かわい・かおり ノンフィクション作家)

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