書評

2026年4月号掲載

私の好きな新潮文庫

ピンク色に毒される前に

菊池日菜子

対象書籍名:『ぬるい毒』/『血も涙もある』/『海と毒薬』
対象著者:本谷有希子/山田詠美/遠藤周作
対象書籍ISBN:978-4-10-137173-3/978-4-10-103627-4/978-4-10-112302-8

 新しい家のカーテンはピンク色にした。上京を機に変わりたかった。私はピンク色が嫌いだ。いや、ピンク色を好きな人だと思われることが嫌いだ。私にとってピンク色は、色恋、ハート、女の子、パニエ、高い声と可愛い顔。ピンク色は可愛くて、魅力的で、目を離せなくて、生温くて、熟れすぎた桃に似た哀しさがある。私はずっと、ピンク色に侵されるまいと必死だった。小学校の頃、同級生に「声が高いね」と言われたときは自己嫌悪で眠れなかった。取材で私の放った言葉に“♡”を付け足されていたときは、焦るあまり全世界へ弁明したい衝動に駆られた。
 ピンク色に毒される前に、こんな抵抗やめにして、いっそ私のモノにしたかった。当時はコロナ禍真っ只中。家から出られず生活リズムも逆さまな中、昼夜を問わず、たくさんの本を読んだ。「最悪な本」に出会う度、私は私を好きでいられた。

本谷有希子『ぬるい毒』書影

 ピンク色のカーテンがかかる部屋。まだ多少の居心地悪さを拭えないまま、『ぬるい毒』を開いた。そこには自意識と闘う女の子がいた。彼女はあまりに残酷な彼を前に服従する日々だった。彼の退廃的で摑めない魅力に彼女はそうせざる他なかった。自分を支配する彼を、どうにかして出し抜きたいと闘う彼女はどこか私に似ていた。
 特別でない描写なのに、なぜか頭を離れない一文がある。自尊心をズタズタにされた飲み会の後日、あらゆる地獄を封じ込めて、当たり障りのないメールを打つ。彼女は「全体としての文字のバランスを確認したあと、保存だけした。」私はこの一文に妙な共感を覚えた。自意識が許す人格を着実に形成していく自分と、どこかで本当は分かっている浅い自分。その間で葛藤する彼女が痛いほど分かる。どうにか彼女の背中をさすりたかったが、五年間の闘争の末、私の望む手助けなど遂には必要なかった。「私が必死で生きているところを馬鹿にするのは、もうやめてと叫びたかっただけだった。」「私は生きようとしているだけだ。」そんなことを素直に思えるようになっていた。彼女は、私は、「いまでもたまに、いろんなことを思い出す。」そしてまた、歳を重ねる。
 歳を重ねるにつれ、純愛というものにハテナが浮かぶようになった。当人の思うままの純度は、どこへ行こうと誰かの耳に入る頃には多少の濁りが生じるような気がしてならない。それなら数十年の大恋愛も、回転数の多い不貞も、何が善と言いきれようか。倫理を除けば。

山田詠美『血も涙もある』書影

 そんな理解をしていながらも、『血も涙もある』の書き出しには驚いた。「私の趣味は人の夫を寝盗ることです。」振り切った自己紹介に、どんな綺麗事にも勝る純粋さを見た。尊敬する先生の夫を淡々と我が物にするモモの前では、俗に言う“尊敬”という意味すら懐疑的になる。だがモモには血も涙もある。血も涙も自分の中にだけ流れるものなのだから、何が血で、何が涙かは自分で決めればいいんじゃない? 読み終わった頃には、私もそんなことを口にするのだ。

遠藤周作『海と毒薬』書影

 私の中でしか蠢かない罪悪感は、広い世界では悪とされないのか。私さえ素通りしてしまえば、無になってしまうのだろうか。考えても答えは出ないが、考え続けたいと思えた本がある。遠藤周作さんの『海と毒薬』という小説だ。福岡県出身の私には身近に感じていた“九州大学生体解剖事件”が、解剖に参加した医師の立場から語られている。
 この小説は冷酷だ。救いは見当たらない。ゆっくりと地に足をつけて近づいてくる事実は、澱んだ空気とともに良心を蝕み、“仕方がなかった”と語りかけてくる。それは罪悪感を殺してくれる訳でもなく、安心したい私を放り投げて、事実の前に再び立たせるのだ。読む者の答えを静かに聴き、また問い、また聴く。私の中で生き続ける名状しがたい罪悪感を、私はたしかに憶えている。本の中でだったか、それとも。

 たくさんの本に連れられて、たくさんの世界を見た。私を見つめた。気が付けばピンク色のカーテンがかかる部屋を飛び出て、広がる混沌の世界をどこまでも面白がってやりたくなった。

(きくち・ひなこ 俳優/モデル)

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