書評
2026年5月号掲載
田山花袋が自らの性欲を露わに書いたのは(ただ)変態だからではなかった!
木村洋『「蒲団」の時代─自然主義とは何だったのか─』(新潮選書)
対象書籍名:『「蒲団」の時代─自然主義とは何だったのか─』(新潮選書)
対象著者:木村洋
対象書籍ISBN:978-4-10-603944-7
田山花袋『蒲団』とか「自然主義」「私小説」というワードを聞いて、「うわ……」とネガティブな反応をした人、ぜひ立ち止まってほしい。知らないという方でも、炎上とか親子世代の喧嘩、スキャンダルといったテーマに関心があれば、ぜひお付き合いいただきたい。
田山花袋『蒲団』という小説がある。1907年に発表された小説で、作者本人と思しき既婚者の作家が、女性弟子に対して欲情するも、彼女が男と交際していることを知って激怒。彼女を追い出したあと、彼女が使用していた蒲団に鼻を押し当てるという内容だ。面白いと思いつつも、正直、激キモ小説だなあという偏見でしか認識していなかった。
こうした田山の小説や、彼に続く文学潮流を「自然主義」とか「私小説」と呼ぶ。「私」の欲望や在り方を「自然」のままに描くのが特徴だ。これらは批判的に言及されることが多い。代表的なものは、自分や文壇のことばかりを書いて文学の可能性を狭めた、小説の強みであるフィクション性を蔑ろにしているなど、その射程の狭さを糾弾する。一方でそれに対して、平凡な人間の心の動きを具に描いた細やかさ、読者の側が過剰に事実の枠組みで読んでいることを見直すなど、(再)評価する向きもある。私の場合は、完全にネガティブ寄りだった。作者の情報を補助線にしないと楽しめないのはフィクションとして欠落しているのではないか、露悪的な自己開示に過ぎないのではないかと思っていた。
ところが『「蒲団」の時代─自然主義とは何だったのか─』によって、自然主義や私小説への見直しを促された。本書では、自然主義を、先行世代や時代規範に対するカウンターとして位置付ける。自然主義を担った田山花袋、国木田独歩、島崎藤村といった作家たちが活躍したのは、主に日露戦争以後。彼らのほとんどは1865年以降に生まれており、その当時まだ三十代と若かった。
若者世代は、年長世代や時代を覆う規範に対して、反骨心を抱きやすい。その対象は、当時の日本を覆っていた『論語』的な旧道徳、そして日清戦争と日露戦争によって培養されていた「忠君愛国」という規範であり、硯友社をはじめとした作家たちの技巧的な表現だった。
そうした建前や道徳に対して、自然主義の書き手たちは生身で、直接的な「裸体の言葉」をぶつけることを選択した。つまり自然主義とはカウンターカルチャーであり、彼らの文学は、赤裸々で率直でむき出しな本音によって既存の常識を揺り動かし、社会を再生する革命なのである。
したがって、政府は、自然主義を危険思想と見なすようになった。前後して、煩悶した若者の自殺が相次ぐ、小説のモデルとなった人物が苦情を訴えるなども、その傾向に拍車をかけた。ついに1908年ごろからは、一部の作品への発禁処分が下されたり、政府や警察による作家の監視がなされたりするようになる。一方で作家や出版社も黙って従うわけではない。更に過激な作品を発表したり、それを不服と裁判を起こし、出版社は過激な描写を伏せ字にして検閲を搔い潜るなどして、政府VS自然主義の構図が出来上がった。
こうして小説家たちは世間の注目を浴びる存在となった。社会からの注目を糧に、作家たちはより一層、自分という「個人」を前面に押し出していく。個人の思い、行動、その内に秘める本能、そうしたものを露わに描くことが、規範が席巻する時代にあって、乾坤一擲のカウンターだったのだ。
だが1910年代には、運動としての自然主義は徐々に下火になっていく。志賀直哉と平塚らいてうといった更なる新興世代の作家たちが登場し、更に自然主義自身が技巧に傾いていく(元々は技巧へのカウンターだったのにも拘らず)。ただしその一方で、夏目漱石や谷崎潤一郎の一部の作品、武者小路実篤といった作家たちに、露わな告白や個人主義は確かに受け継がれていった。そして一見すると自然主義に批判的だった平塚や田村俊子らにも、性欲や自身の生活を露わに描くという手法は自然主義から受け継がれていると言える。
自然主義、田山花袋というと、男の性欲、文壇のことばかりといったイメージを持っていたが、その潮流は、女性たちの解放、そして社会へのインパクトという、極めて大きな可能性を切り拓いたものだったということが、本書を読むとよく分かるだろう。
それにしても、自然主義は、現代の発信者(YouTuberなどのネット配信者、エッセイや日記といった文芸の書き手)に共通する部分が多すぎる。自然主義の作家たちは注目が集まっている自分たちという存在を最大限に活かして、本音や事実という演出を施していたが、その在り方やトラブルは今日の発信者と変わらない。ポリコレや建前へのカウンターとしてなされる発信という在り方も、ほとんど自然主義そのもの。本書を通して、自然主義を見直すことは、驚くほど直接的に現代を見直すことになるだろう。
(わたなべ・すけざね 書評家)



