書評

2026年9月号掲載

「中動態の詩人」が示す、俳諧の本質

黛まどか『蕪村─「日常の美」の発見者─』(新潮選書)

山折哲雄

対象書籍名:『蕪村─「日常の美」の発見者─』(新潮選書)
対象著者:黛まどか
対象書籍ISBN:978-4-10-603949-2

 黛まどかが久しぶりに新著を出した。満を持してのことだろう。デビュー当時の気負いはもうないが、その後、国内外の巡礼や災害地への旅を重ねている。
 ファンの層も広がり、大胆な視点もとり入れようとしている。蕪村の人生を芭蕉、一茶と比べて論じ、今思想界で話題の能動態、中動態、受動態をとりあげ、芭蕉は能動、一茶は受動、蕪村は中動態の詩人だったとする。気がきいているとも思われるが、どこからでも文句のつけられそうな枠組ではある。
 蕪村は知られているように、俳諧師と絵師の二つの顔をもつ。その心の底にどんな扉をもつか、見極めがたいところがないではない。その秘密を若い世代にどう伝えるか、腕の見せどころだ。
 その目論見が、目次立ての各章の工夫にあらわれている。
 トランプ遊びで、キングやクイーンの絵札を扇を開くようにサッと開いてみせる。つづいてその章節を浮彫りにする代表句二句をそえる。これまた鮮やかな絵画的手法といっていいだろう。
「人生のパラレル」(1)、故郷想望(2)とつづけてそれぞれに代表句二句。以下、春惜しむ(5)、生を写す(7)、余白を読む(8)、市井の女たち(9)、蕪村の五月雨(14)、涼し(15)とつづき、文人たちとのつき合い、たわむれに及び、最後に、老いらくの恋(20)、秋の暮(21)、辞世(22)で終る。
 その最後の「辞世」の代表句に下の二句の芭蕉を慕う作品をおいている。

 芭蕉さりてそのゝちいまだ年くれず
 我も死して碑にほとりせむかればな

 著者の筆は、「秋の暮」あたりからしだいに憂愁の気を深めていく。序破急の急転への坂をころげていく。すでに亡きご自身の父への悲傷、病に伏す母への嘆きの思いがそれに重なっていく。
 俳句の道は奈落への一本道か、それともあの芭蕉翁のいう「一筋の道」へとつづくのか、思いは千々に乱れ、奈良時代の名僧、行基の歌へとしだいに引き寄せられていく。

 父ありてあけぼの見たし青田原    一茶
 父母ちちははのことのみおもふ秋のくれ   蕪村
 ちゝはゝのしきりにこひしきじの声  芭蕉

 そして最後に行基にたどりつく。

 山鳥のほろほろと鳴く声聞けば
 父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

 そして著者の黛まどかもまた、俳諧の伝統の末端につらなって、芭蕉は、「滑稽中心だった俳諧に、わび・さび・しおり・細み・軽み・幽玄などを取り入れて芸術性を高めた」といい、
「大衆に迎合せず、自分の信じる道を歩んだ。それは西行が和歌に、宗祇が連歌に、雪舟が絵に、利休が茶に追求したものと一であった。芭蕉はその一筋に繫がる道をひたむきに歩んだ」
 と語っている。
 しかしこの芭蕉のメッセージはわが「俳壇」でほんとうに息づいているだろうか。現代の俳句共同体で真に求められているのか。本書を通読していて感じとったことだ。
 そもそも「俳」とは何か、「俳人」とは何者だったのか。そこに封じこまれているコトバのエッセンスは、
「常人離れのヒト」
 ということではないか。
 このコトバに凝縮されていることに、誰でも気づくはずだ。手元にある辞書をめくれば、行ったり来たり一所不住、放浪の旅をつづける「わざおぎ」、つまり俳優たちの世界のことだ。
 中国に起源をもつが、このニッポンではおなじみの「もどく」「かぶく」につらなる芸能系列のキーワードだ。場合によってはそこでヒトサシ舞ってタンカを切る、あの遊びと笑いの舞台をまきおこす。
 その根っこには、伝統とか派閥とか、眼前の壁を超えていく非人情の世界が広がっている。
 その嘆きの声が本書のあちこちからもきこえてくるが、それが目次立ての工夫からも立ちのぼっている。

 月天心にかかり
 日輪はるか春堤に落つ

 蕪村がもうそこまで、やってきている。けれども蕪村翁よ! あなたの「老いらくの恋」の物語については、もうしばらくの時間がかかりそうだ……。

(やまおり・てつお 宗教学者)

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