書評

2026年9月号掲載

私の好きな新潮文庫

“逃げ場”から“確かな道筋”へ

芋生悠

対象書籍名:『つめたいよるに』/『ふがいない僕は空を見た』/『キッチン』
対象著者:江國香織/窪美澄/吉本ばなな
対象書籍ISBN:978-4-10-133913-9/978-4-10-139141-0/978-4-10-135913-7

 学生の頃、私にとって本は“逃げ場”だった。教室の片隅で、誰にも干渉されたくないという一心で本を開く。ページの内容なんて一行も頭に入っていなかったけれど、とにかく「本を読んでいる私」という防御壁を張っていれば、なんとなくやり過ごせたからだ。それが上京後、少しだけ贅沢な“隠れ家”へと進化した。家具のない殺風景な部屋で、ダンボールの上に積み上げた物語たち。かつての逃げ場は、いつの間にか自分だけの時間を楽しむための大切なスペースになっていた。
 そんな私の時間を、密かに、しかし確実に彩ってくれた三冊がある。あれから少し大人になった今、改めて読み返すと、夢を追い上京してきた当時を少し愛おしく感じさせてくれる、特別な物語たちを紹介したい。

江國香織『つめたいよるに』書影

 江國香織『つめたいよるに』
「デュークはとても、キスがうまかった」
 この一文で魔法にでもかかったように物語に引き込まれた。冒頭の一編「デューク」は、愛犬との別れと再生を描いた物語だ。空想的で、オカルトめいた静けさは、現実の境界を曖昧にし、私の日常をふわりと非日常へと誘い込んでいく。
 この本には、そんな柔らかな揺らぎが満ちている。終盤の一編「ねぎを刻む」に触れるとき、私は頁を閉じて反芻する。
「どうして、二人の方が孤独が濃くなったりするんだろう」
 その切実な問いに、冷たい熱を感じる。物語は日常を切り取った一片。彼女はラスト、食卓を整えながら、「私の孤独は私だけのものだ」と確かめ、しゃくりあげながら山盛りのねぎを味噌汁に入れる。そして深呼吸をして、明日を迎える覚悟を決めたようにご飯を食べる。あの孤独を肯定する慎ましさが、今の私に必要な温度をくれる。ドライな都会の風の中で、この本だけが確かな体温を持って、今日も私の本棚で静かに呼吸している。

窪美澄『ふがいない僕は空を見た』書影

 窪美澄『ふがいない僕は空を見た』
 ふと、そのタイトルを声に出したくなる時がある。切ないのに、どこか小気味良さがあって、胸の奥の澱をすくい取ってくれるような感覚だ。
 大人になる過程で突きつけられる現実は、時に不器用なほどに残酷だ。物語の中の彼らは、誰にも言えない関係や自身の未熟さに押しつぶされそうな日々を送っている。甘い言葉で寄り添ってくれるわけではないが、彼らの抱く“痛み”がどうしようもなくまさに痛いほどに伝わってくる。それは生と性の営みのなかで、誰かと、あるいは自分自身と、魂で繫がろうとする必死の足搔きだ。
 それが行間から、胸を射抜くほどの鼓動の音を伴って流れ込んでくる。物語の彼らを見ていると、「どうしても生きていたい」という泥臭い底力がふつふつと湧いてくるのを感じる。“逃げ場”だった読書は、この本に出会ったことで、現実を受け入れた上で自分の足で立つという確かな道筋へと変わった。この本は、傷ついたまま空を見上げる勇気をくれる伴走者である。

吉本ばなな『キッチン』書影

 吉本ばなな『キッチン』
 かつてはただの点だった読書が、いつしか点と点が線になるように、私の足場へと変わってきた。そのなかでも、この物語に抱く感情は少しだけ複雑だ。完全に分かり合えるわけではない他者と生きることは、いつだって痛みを伴う。
 作中の彼らは非情な喪失を背負わされ、「神様って、いないのかしら」と零す。なのに、そんな彼らが羨ましく見える。運命に翻弄されながらも周りを惹きつけてやまない光のようなものがそこにはあるから。感情移入すればするほど苦しいのに、眩しい羨望すら入りまじってくる。
「満月」「ムーンライト・シャドウ」と、この本に月がたびたび顔を出すのも好きだった。夜に月を見上げる時、私はたったひとりになれる。空にぽっかりと浮かぶ月は、どうしようもない隔たりや痛みを抱えた私たちの頭上で、ただこちらを眺めるように光っている。同じ屋根の下で誰かが息をしていて、水音が響くキッチンのそばで眠る夜は、隙間を無理に塞ぐのではなく、その隣で今日をやり過ごすこと。そんな小さな営みに、月はそっと寄り添ってくれる。
 かつて身を潜めるための逃げ場であり、束の間の隠れ家だった物語は、いつしか私の人生に欠かせないものとなった。ねぎを刻み、誰かの気配を感じ、丁寧に日々を重ねていく。そうして自分の手で紡いだこのささやかな暮らしこそが、かつての心細かった私を温めてくれる。あの頃夢見た未来の部屋で、今日も愛おしい物語たちをそっと抱き寄せる。

(いもう・はるか 俳優)

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